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【短編】志村坂下児童館のヴェートーヴェン

 

 志村坂下児童館のヴェートーヴェン

 

 ホールの片隅で普段はどっしりと黙り込んでいてたまにヘタクソなネコフンジャッタとか意味の無い滅茶苦茶な騒音しか鳴らされない古いアップライトピアノが第二木曜日と第四木曜日だけはルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンを歌う。馬鹿丸出しの島村とかが「ベートーベン弾いてベートーベン!」とか馬鹿丸出しで騒ぐから僕はそれが嫌で島村は友達でいつも一緒に遊んでいるけど僕も同じ様に馬鹿を丸出しにしてしまうガキだと思われたく無くてある日のパソコンの授業中にこっそりと「ベートーベン」でググッて、その作曲家が正しくはルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンという名前で水木さんが弾いてくれるあの何て言うか物悲しい感じの曲も『エリーゼのために』という名前だと突き止める。突き止めたのは良いけれど曲名をちゃんと確かめようと思ってYouTubeにアクセスしてしまい、スピーカーからピアノの音がボロンボロン流れて谷岡先生に課題をサボっているのを見つかってしまったのは痛かった(頭叩かれたし)。

 しかしそのおかげで僕は水木さんが弾いている曲の名前もそれを作った人の名前も知る事が出来て、馬鹿丸出しの島村に向かって「ルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンな。ベ、じゃなくてヴェ、なんだよ」と賢さ丸出しで言ってやる事が出来るようになった。「健ちゃんくわしーなー」と言う島村に向かって僕は「ドイツの、ロマン派の、作曲家だよ。でも凄いんだぜ、ナンチョーだったんぜ?」と立て続けに捲し立てる。するとピアノの前に座っていた水木さんが「ケンジくん詳しいんだねえ、音楽好きなんだ」と言ってくれる。僕は変わらない賢さ丸出しでそれに答えたいのだけれど、水木さんの笑顔を見ると頭の中が真っ赤っ赤になって顎が震えて脚が固まってどうしようもなくなって、その上自分の賢さなんて急ごしらえの底の浅い物だという事実に自分で怖くなって「はっ、はい。え、まあ、す、好き、かも?かな?」とか急にたどたどしさ丸出しになってしまう。音楽なんてテレ東の宇宙戦争のやつと兄ちゃんが聴いてるウルサいバンドのやつと水木さんの『エリーゼのために』しか知らない。

 ああ水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さんと僕は毎晩のように布団の中で二つ目の枕を抱き締めながら(一つ目は頭の下にちゃんと敷いてある)唱えて悶える。唱えれば唱えるほど水木さんが傍にいてくれているような気がする。あの柔らかい優しい可愛い美しい最高の笑顔が僕の腕の中にあるような気がしてくる。あるような気がしてくる?いやいやいやいやそれってどういう事だよオレが水木さんを抱き締めてるって事?布団の中で?なにそれどういう状況だよそれってあれなんじゃないのオトナがするやつなんじゃねーの?それダメじゃね?それじゃオレただの変態じゃね?こんなの絶対考えちゃダメじゃね!?と僕は急に恥ずかしくなってギューギュー抱き締めていた二つ目の枕を布団の外に投げ捨てて一旦落ち着こうとする・・・という事を毎晩のようにやっている。ああ水木さん水木さん。名字しか知らないけれど、こんなやつがあなたの事を好きでごめんなさい、大丈夫です僕は清い男子です変な事はなんにも考えてません大丈夫ですあなたは高校生で僕は未だ小6で年の差はあるけどもうすぐ中学に上がるし高校と中学なら段階ひとつしか変わらないしそれに僕は島村ほど馬鹿じゃないしちゃんと考えられるしでも純粋丸出しの男で・・・と誰に言い聞かせてるんだから解らない事を考えているうちにいつの間にか僕は寝ていて、夢の中に児童館のピアノが出て来てそれを弾いている水木さんの手が出て来てごくごくたまに水木さんの笑顔が出て来てだけど島村が急に間に立って「ベートーベンでしょ!」と叫んだりしてムカッとした所で気付いたら朝になっている。という事をやっている。 ああ初恋です。

 頭の中が真っ赤っ赤の僕はだけれどとんでもない勘違いをしていた事に気付かされる。

 水木さんが来ない週のある平日にいつものように志村坂下児童館のプレイルームで魚雷戦ゲームで遊んでいた時、対戦相手だった五十嵐に「そういえばさ、水木さんって、下の名前なんて言うんだろね」と言った。物凄く自然な感じを装っていたけど、正直ドッキドキだった。この一言で僕が水木さんに惚れてる事がバレると思ったし、だからこそ馬鹿の島村がいない時に信用出来る誰かに訊きたいと思ったし、好きな人の下の名前を知らないという事が僕の中で丸出しになってしまう瞬間もまあ五十嵐の前でなら耐えられるかなと思った。五十嵐は僕より頭も良いし性格も良いし格好は良く無い。

 鉄球を砲台にセットしながら五十嵐が「ん、どういう事?水木さんは水木さんじゃん。あの、たまにお手伝いに来る高校生でしょ?」と言う。

「うん、第二木曜と第四木曜の。だから、水木さんの下の名前、オレら、知らないよね」

 そう返しながら、どの日に水木さんがここに来るかを僕がしっかり把握している事実がバレてしまった事に気付き背中が冷える。しかし五十嵐はそんな事は気にせずにまたすかさず返す。

「だから、水木さんじゃん」

「は?そうじゃなくて、名字じゃなくてさ、下の・・・」とそこまで言って僕は今度は耳の後ろが冷えて震える。瞼が固まる。頭の中が真っ青っ青になる。

「だからー、下の名前がミズキでしょ。」

 五十嵐が放った鉄球が僕の三つ並んだ内の真ん中の艦を一発で海に沈める。カタコと軽い音がして船はプラスチック製の海底に落ちて、役割を果たした鉄球がゴトツと受け皿に落ちる。

「えっ、あっ、じゃじゃじゃじゃあ、みょ、名字は?」

「それは知らないよ。ここの人もみんな名前で読んでるし。つーか早く撃てって、健ちゃんのターンじゃん」と五十嵐が指先で鉄球を捏ねるように弄びながら言う。

  なんてこった。

 僕は意識が朦朧とするのを感じながら鉄球を手に取って砲台にセットしてスコープを覗き込んで五十嵐のどの艦を墜としてやろうかと考えながらなんてこったなんてこったなんてこったとずっと頭の中で繰り返していた。

 どうしよう。ずっと名字だと思ってたのは下の名前だったんだ、あの人は水木なんとかっていう人じゃなかったんだ、ちくしょーコレぜってー兄ちゃんのせいだよアイツ古い漫画ばっか集めてて水木しげるの漫画が面白いとか言ってオレに水木さんの鬼太郎が水木さんの悪魔くんがとかやたらオレに言って来るからだ、どうしようどうしようオレはあの人の名前を勘違いしてたんだ好きな人の名前を勘違いしてたんだずっと布団の中で下の名前を唱えてたんだそんなやらしい事してたんだ!!どうしようごめんなさいごめんなさい僕は間違ってましたすいませんワザとじゃないんです勘違いだったんです嫌わないでください僕は清さ丸出しでエロい事なんか全くなんにも考えてないピュアな12歳で・・・と頭の中で思考にとぐろを巻かせている内に放った鉄球がゴロゴロゴロゴロと鳴って五十嵐の艦が続けて二隻墜ちる。

「おい二発撃ってんじゃねーよ!もうやめよーぜ、やっぱコレつまんねえよ。なんでお前こんなん好きなんだよ」

 五十嵐が立ち上がって魚雷戦ゲームを棚に片付けだす。僕は「うん、」としか言えない。ああ水木さん水木さん、いや違う、ミズキさんミズキさん・・・。水木なんとかさんじゃなくて、なんとかミズキさんなんだ。なんとかミズキさん。ああなんとかミズキさん。

 ん、そういえば漢字はどう書くんだろう?まさか水木とは書かないもんな。しかしこれ以上五十嵐にミズキさんについて訊くのはさすがに危ない。お前もしかして、なんて言われたら今の僕の発熱した脳みそでは絶対に上手く取り繕う事が出来ないだろう。

 その夜僕は布団の中でミズキさんと唱える事が躊躇われた。だって女の子を下の名前を呼ぶなんて、そんなはしたない事は出来ない。そういうのってもっと、何ていうか呼んでも良いっていう状況が出来てから呼ぶもののはずだ。二人の間で。わかんないけどそうなんだ。でも僕は耐えきれずに二つ目の枕をギューギューしながらミズキさん、と呟いてしまう。これまでとは全く響き方が違っていた。だってだって名前っていうのはその人だけが持ってるもので、名字っていうのはその人の家族がみんな共有してるもので、だから下の名前を呼ぶっていう事は、本当にその人の事だけを呼ぶ事になるわけで・・・と考えて僕は頭の中が急激に真っ赤っ赤になる。その夜は真っ赤っ赤な夢を見て真っ赤っ赤な朝焼けで目覚めた。

 ミズキって、漢字でどう書くんだろう?

 その日の放課後、僕は池袋のヤマハにいた。二階の楽譜売り場で『エリーゼのために』の楽譜が載っている一番値段の安かった本(「『エリーゼのために』からはじめる初めてのクラシックピアノ」780円税込み。)を買い、その次の第四木曜日に児童館に持って行った。エプロン姿で髪を後ろで一本に纏めたミズキさんがホールでフラフープやボールや輪投げの整理をしている。後から来た島村が「あっミズキさん来てんじゃん!ね、ヴェートーヴェン弾いてよ!」と騒ぐ。ベじゃなくてヴェが言えるようになってる。ミズキさんが「島村くん好きだねえ」と笑ってピアノに向かう。島村は馬鹿丸出しだけど本当に音楽が好きなのかもしれない。ミズキさんの結んだ髪が揺れながらピアノへ向かう。ミズキさんごめんなさい、僕はまだ音楽よりあなたが好きです。

  ミズキさんが椅子に腰を下ろしてピアノの蓋を開けてエンジ色の布を取り、左右五本ずつの指をそっと白い鍵盤の上に置く。その時にすっと背筋がまっすぐになる。そして一つ息を置いてから、音楽が始まる。月に二回しか歌えないピアノがその鬱屈を晴らすように弦を震わせる。音が児童館のホールを満たす。ミズキさんの指が鍵盤の上を踊って行く。手首が跳ねる。その度に鍵盤が踏まれて弦が叩かれて音が鳴って音楽が歌われる。僕も島村もホールにいた他のやつらもミズキさんの『エリーゼのために』に包まれる。僕はああミズキさんだと思う。変態っぽいけどミズキさんに包まれてると思う。だってミズキさんがここにいてミズキさんがこのピアノを弾かないとこの音はここに鳴らないのだし、ミズキさんが鍵盤を指でどんどん踏んでいくから歌になるのだし、ということはこのルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンの『エリーゼのために』はミズキさんそのものなのだ。志村坂下児童館の西日が差し込むホールをミズキさんが満たして、頭の中が真っ赤というか真っ桃色になってる僕をミズキさんが包んでいるのだ。やっぱり本当に幸せだった。

 演奏が終わって島村が「やっぱいーなー!」とか叫びながらホールを走り始めて、僕は脇に置いていたあのヤマハで買った楽譜を取って来る。頭の中を一気に真っ赤っ赤に燃やしながらそれをミズキさんに差し出して、「あの、サイン、ください!ミズキって、書いて、下さい!」と意を決して言ってみる。ちゃんと油性ペンも用意している。

「えっ、えー?」

 ミズキさんが驚いたような顔で笑う。

「なんでサイン?私べつに、ベートーベンじゃないよ?」

 笑いながらミズキさんが言う。ありゃ、ヴェじゃなくてベだ。

「で、でもいいんです、す、好きなんで」

 と言って僕は全身が真っ赤っ赤になった心地になる。あっ言ってしまった!と思う。けれどミズキさんが「うん、いいよねー、エリーゼ。私もこの曲好き」と言いながら楽譜とペンを手に取ってくれたので一先ず安心する。ミズキさんは「なんか自分が作曲者でもないのにサインなんてヘンな感じ」と微笑みながら表紙の裏に名前を書いてくれた。そして「はい!」と手渡してくれる。僕は「ありがとうございます!」と言いながらそれを受け取り、だけどすぐにそのサインを見る事は出来なかった。

 ミズキさんが職員室に戻ってから、僕はプレイルームの隅でそっと「『エリーゼのために』からはじめる初めてのクラシックピアノ」の表紙を開いてみた。下の方に

 

 瑞季  ケンジくんへ

 

 と書いてあった。読めなかった。は、はた?じゅ?で、き?と思った。いや違う、これでミズキなんだ。これでミズキと読むんだ。これがミズキさんの名前なんだ。名字は結局解らなかったけど(フルネームでサインくださいなんて言えなかった)、どういう漢字で名前を書くか解った。瑞季。瑞季さん。僕はその奇麗な字を見つめながら「瑞季さん」と呟いてみる。心臓の鼓動が一回だけ急に大きく鳴って全身が震えるのが解った。

 瑞季さん。

 あの人は瑞季さん。難しい漢字だけど、瑞に季でミズキ。瑞季さん。ああ瑞季さん。僕はあなたが好きです。名字は未だ知らないけれど。

 でももう一つ問題が生まれてしまった。今度は僕の名前をどう漢字で書くか、知ってもわらなきゃいけない。

 

 その翌日から志村坂下児童館のホールには瑞季さんのいない日でも『エリーゼのために』が鳴るようになった。瑞季さんが弾くのとは全く違う、たどたどしくてただの騒音にしか聴こえないものだったけれど。家にピアノがあればこんなに必死になってる姿を島村とか五十嵐とかその他の知らないガキんちょ共に見せなくて済むのになと思う。もう絶対バレてる。でもそれでもいい、今はこの楽譜に書いてある音楽をこのピアノに歌わせられるようになりたい。何でかは解らない、でも瑞季さんのサインをもらった以上、この楽譜のことをしっかり愛さないといけないと思った。

 馬鹿丸出しの島村にからかわれる。「お前のヴェートーヴェン下手すぎるな!」とからかわれる。ウルサい。ああ家にピアノが欲しい、家でゆっくりとこの曲と向き合いたい、瑞季さんのサインを眺めながら。聴かせるわけじゃないけど次の木曜までにもっと上手く、その次の木曜までにはもっともっと上手くなりたい。そしていつか瑞季さんに僕の上手くなったエリーゼを、僕の音楽を聴いてもらいたい。あとパソコンも家に欲しい。谷岡先生に叩かれるのはもうこりごりだし。