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【短編】孤独のグルメ『栃木県さくら市喜連川の温泉パンからの宇都宮のかかしそば』

 

 

 

 

   孤独のグルメ『栃木県さくら市喜連川温泉パンからの宇都宮のかかしそば』

 

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1.

 温かい。身体がじんわりとほぐされていく。首筋から肩にかけては心地良い冷たく硬い感触。ゆっくりとその人工大理石のような縁に凭れ体重を預けてみると、腰の辺りがふわりと浮き上がり、まるで眼の前に広がる青空の中に吸い込まれていくような気がして来る。確かあの時もこうやって空を仰いで水の音を聴いていた。そう、餃子包囲網を抜けた先にあった、大きな橋の上。あの日も大変に良い天気だったけど、今日の晴天もどうだ。白い雲が如何にも雄大に視界の中を泳いで行く。

 微かな初冬の風が頬に当たる。熱い湯が淡い湯気をくゆらせながら俺の身体を隈無く暖める。

「あぁ…」

 冷えた顔を湯にまみれた手のひらで拭うと、もう最高の気分だ。

 まさか、こんな所で露天風呂付きの温泉にありつけるなんて、全然予想してなかった。

 綺麗な石造りの湯船とそれを囲むゆったりとした敷地。休憩用の椅子とテーブルまである。しかしここは温泉宿なんかじゃない、気軽に立ち寄れる道の駅だ。

 今日は午前中に宇都宮まで車で来て納品を済ませた後、そこから西北に進んださくら市喜連川で商談があったのだが、そこでこの道の駅きつれがわを偶然見つけた。円筒型の大きな建物があり、資料館でも併設されているのかと思ったのだが、まさかそれが温泉だったとは。しかも入浴料は大人500円ときてる。都内の銭湯とほとんど変わらないじゃないか。久しぶりの長距離ドライブに少し疲れていた俺にはまさに天の恵みだった。

「ああ、このまま一泊しちゃいたいなあ」

 思わず吐息混じりに呟く。なんだか優雅で自由な一人旅でもしてる気分になってきたぞ。

「お兄さん、どっから来たのお」

 同じ湯につかっていた老齢の男性が俺に話しかけた。

「ああ、東京から来ました」

 はにかんで俺は答える。しまった、独り言が聴こえてしまったみたいだ。

「東京かぁ。仕事で来たんかい」

 ゆっくりと尻上がりになっていくイントネーションでその男性が地元の人だと解る。

「ええ、丁度その帰り道でして。まさかこんな所に温泉があるなんて、知りませんでした」

「栃木の温泉つったら鬼怒川とか那須がそりゃ有名だけど、川治とか中禅寺とか色々あるのよ。そんでここ、喜連川もね」

「たくさんあるんですね、勉強不足でした。とても良い湯です」

 苦笑しながら答える。しかしこれは決してお世辞なんかじゃない、本当に良い温泉だ。身体の芯からとろけてしまいそうだ。

「ああ、そうだろう」と呟いた男性は畳んだ手ぬぐいを頭に乗せたまま、首もとまで湯につかり、目をつむって押し黙った。まるで温泉の成分をじっくりと全身に染み込ませようとしているようだ。俺も真似してみる。水面の音が耳元で静かに弾け、湯の熱が身体に優しく滲んで行くのが解る。気持ち良い。大昔、まだ社会も、文化すらも無かった頃の人々も、不意に見つけた熱い湯にその身体を浸してこんな心地になったのだろうか。それはきっと今俺が感じている心地良さと、数千年の時を隔てても全く同じものに違いない。なんだか日々の全てを忘れて、俺はまるでこの地球に生きる素朴な生き物の一つに戻ったようだ。

「お兄さん、昼飯はもう食べたの」

 老人の声に俺はハッとして目を開け、いえ、これからですと答える。

「この辺はねえ、鮎なんかも美味しいし、結構良いラーメン屋なんかもあるんだよ」

 鮎かあ、いいなあ。海に接してない県はやはり川魚に期待が持てる。栃木のラーメンと言うと、すぐに思い付くのは佐野のラーメンだ。と言ってもこれはつい最近学んだものだ。佐野は確か埼玉に近い所謂県南の方だったと思うけど、この辺りは県央だ。

「ちょっと下って行くと竹末っていう店があるんだけどね、あそこは美味いよ。スープがまっ黄っ黄でなあ、麺も細くて食べやすいんだ」

 まっ黄っ黄のラーメン。豚骨だろうか。少し気になる。

「タケスエですね、覚えておきます」

 なんだかぶっきらぼうな返事をしてしまったが、仕方がない。実はそろそろ、のぼせそうだ。

「ありがとうございました、お先、失礼します」

 俺は老人に声をかけて、湯船から上がり室内に戻った。火照った身体を冷たい風が撫でる。

 

 

 

2.

 もしかしたら仕事が長引くのではと思い、替えの下着を用意しておいて良かった。暖まった身体と乾いたシャツのゆるやかな擦れが、ああ湯上がりだなあと思わせる。こういう感じも久しぶりだ。

 道の駅といえば名産品や土産物。入って来た時はちゃんと見なかったが、建物のホールには所狭しと色々な食べ物や民芸品の類いが並んでいた。鮎の甘露煮、かんぴょうの漬け物、そしてとちおとめのジャム。どれもこれも栃木土産にはもってこいの代物だ。

 ふと見ると、茶色くまるっこい物がビニール袋に入れられて幾つも並んでいた。近付いて手に取って見る。半円球のものが四つずつ入った円筒形の袋。どうやらパンらしい。

温泉パン…?」

 袋にはそう書いてある。なんだろう、聴いた事が無い。温泉パンと言うからには、きっとタネに温泉を使っているんだろう。なんだか身体に良さそうだ。温泉で身体を外から暖めて、温泉を使ったパンで身体の内から滋養を得るだなんて、なんというか完璧じゃないか。喜連川で温泉三昧。

 見てみると色々な味がある。くるみ、オレンジ、黒豆ココア、ベーコンチーズ。生地に練り込まれているのだろうか?外から見る限りはよく解らない。でもチーズはまだしもベーコンは練り込めないよなあ。

「ふむ。いちごは無いのか…」

 ベーコンチーズも気になるが、風呂上がりだし爽やかに、ここはオレンジを買ってみよう。

 

 

 

3.

 外のベンチに座ると、太陽の光がとても眩しい。俺は今買った温泉パンの袋を開け、その半球型の一つを手に取ってみる。

 ずっしりしている。大きさはいよかんを丁度半分に切ったような、いやそれよりも一周りか二周り程は大きい。とは言えこのサイズのパンにしては重いし、指で押してみると密度を感じる。これは食いでがありそうだ。

 口元に寄せるとほのかにオレンジの香りがする。手で千切らず、そのまま豪快にかぶりつく。

「んっ」

 これは凄い、ぎゅうぎゅうに握ったおにぎりみたいだ。ふわふわしてなくて、だけどフランスパンみたいに堅くは無くて、あくまで柔らかいパンがみっちりと詰まっている感じだ。クロワッサンのような鼻から抜けてしまうような食感とはベクトルが全く逆。噛む度にパンの生地が柔らかく裂けながらもしっかりと歯を押し返し、「物を食べているぞ」という感じがする。

 肝心のオレンジはと言えば、かぶりついた断面を見てみると刻まれたオレンジピールのようなものがちらほらと見える。たっぷり入っているわけではないが、醸し出す風味は申し分無いくらいだ。口に入れる度に、ちゃんとオレンジのパン。ずっしりみっちりだけど、とても爽やかだ。

 自販機で買った缶コーヒーを開け、一口含み、また温泉パンに齧り付く。胃にしっかりと入っていく食べ応えと同時に、温泉の成分が身体の内から沁み入って行くような心地になる。美味しい。

 

 温泉に入って、温泉パンも食べて、俺は今とても満たされている。いや、満たされている筈なのだが。どうしてだろう。心のもやもやが消えない。先ほどティーカップの納品を終えて宇都宮を離れた辺りから、漠然とした不安というか、ずっと何かを忘れているような、そんな気がする。落ち着かない。ううん。

 俺は「原因の無い不安」というものは存在しないと思っている。不安には絶対に原因があり、正体がある。だから俺は心にもやもやを感じた時、徹底的に考えるようにしている。仕事の事だろうか、生活の事だろうか、はたまた人間関係、もしくは単に寝不足だとか風邪の引きかけのような体調の問題だろうか。そうやって思い付く限りを一つ一つ手に取って観察するようにして考えてみる。すると必ずどこかで引っ掛かるのだ。意識していない、もしくは忘れてしまっていた所で不安の種になってしまっているものがある。それが解れば不安は消える。消えなかったとしてもその不安は曖昧なものではなく具体的なものに変わる。そうなれば対処も出来る。

 しかし今回はその原因が解らない。どれだけ頭の中を探っても引っ掛からない。一体どうしたものだろうか…。

 不安を感じている事に不安を感じても仕方が無い。一先ず事務所に戻って次の仕事に取りかかろう。まっ黄っ黄のラーメンはまた今度だ。

 

 

 

4.

 県道を車で走り、近場のインターチェンジから高速に入ろうと進路を変えかけた時、携帯が鳴った。運転しながら通話するわけにもいかないので、俺は車を路肩に停めた。鞄から携帯を取り出し、応答する。

「はい、井之頭です。…なんだ滝山か」

 携帯のスピーカーから聞き慣れた浮ついた口調が聴こえる。

『おう、五郎。今大丈夫かあ?』

 大丈夫だから電話に出てるんじゃないか。

「大丈夫だよ。どうした、また何か仕事でも振ってくれるのか」

『まあそんな所。お前今日、栃木だろ?』

 なんで知ってるんだ。こいつ、相変わらずの地獄耳だ。

「そうだけど。今都内に戻ろうとしてる」

『待った、戻るな。俺、明日の昼に宇都宮に行くんだ。そうだな、十一時くらいまでには着くと思うから、駅の傍で待ち合わせしよう。餃子屋とかでどうだ。あるだろ』

「お前さあ、仕事を振ってくれるのは有り難いんだが、その勝手ぶり、どうにかしてくれないか。泊まる予定なんか立ててないんだぞこっちは」

 このまま一泊しちゃいたいなあ、と湯につかりながら呟いた事を思い出す。滝山の、良い言い方をすれば豪放磊落な笑い声がスピーカーから躍り出る。

『まあいいじゃないか。明日は商談の予定も無いんだろ?』

「おいおい、お前、俺のスケジュールどこまで知ってんだよ」

『スケジュール?知ってるわけ無いだろお、そんなの。当てずっぽ』

 滝山がまた大きく笑う。一体どこまで本当なんだか。俺が明日宇都宮に行けなくても、きっとたいして気にせずに話を進めるんだろう。

「ああ、解ったよ。十一時な」

『それでこそ五郎だ!いやな、実は宇都宮でお前を紹介したい人がいてな。大口の注文になるかもしれないから、期待しとけよ』

「解った解った。で、餃子屋だっけ?お前さあ、むちゃくちゃあるんだぞ、餃子屋って」

 餃子包囲網。

『えっ、そうなの?やっぱすげえんだな宇都宮って!』

 俺はもう呆れ果てて笑ってしまう。

「知らないで言ったのかよ。まあいいや、俺が昼までに指定するから」

『おう、頼んだぞ。どうせならすげえ美味い店な!じゃあ!』

 ブチッと一方的に通話が切れる。全く迷惑極まりないのだが、滝山が持って来てくれる仕事はいつも上物ばかりだし、これまでの恩もある。いつまで経っても食えない奴だが、ここはまた一つ信頼するとしよう。

 俺は携帯を鞄に戻し、エンジンキーを回す。まさかの、宇都宮での一泊。決定。

 

 宇都宮駅周辺への進路を確認しながら、俺は溜め息をつく。嵐のような通話だった。

 俺は滝山のエネルギーに気圧されたのだろうか。なんだか、無性に腹が減って来た。

 

 

 

5.

 駅にほど近いホテルでチェックインを済ませ、俺は宇都宮の街に出た。陽は大分陰り、夕闇の中で看板のネオンや街灯が美しく際立ち始めている。橋の下を流れる川ものっぺりとした暗い色になり、微かに月の光をその水面に纏っている。吹き抜ける澄んだ風が冷たい。俺は駅前へ向かう。もやもやは、未だ消えない。

 またやって来てしまった。餃子包囲網。とりあえず今夜はこの辺りで夕食を摂ろう。滝山との約束通り、ここは良い餃子屋を見つけるべきだろうか。前回ここに来た時も結局餃子は食わなかったから、是非宇都宮餃子というものを堪能してみたい気持ちはある。

 しかしそう考えながら包囲網の中を歩いていると、一歩進む毎に次々と目に飛び込んで来る「餃子」の二文字に俺はだんだんとクラクラして来てしまう。迷うというより、目が回ってしまう。一体どこで食べればいいのか皆目見当がつかない。

 その内だんだん、「餃子」の二文字の大量摂取だけで、まるでもう腹いっぱい餃子を食ったような気になってきた。肉と野菜とニンニクの香り、香ばしい皮の焼き目と酢醤油とラー油の刺激で胃が満たされているような心地がしてくる。

 いかん、惑わされるな。俺は本当に腹が減ってるんだ。今すぐに何か食べたい。食べ物で腹を満たしたい。ここでしか食べられないもの、俺のもやもやを吹き飛ばしてくれるもの、そして出来れば、餃子以外のもの…。

「おっ」

 さんざん歩き回ってホテルの近くに戻って来てしまった時、俺は急に現れた「生そば」の三文字に思わず立ち止まった。店の外観は小さい製麺所のようにも見えるが、暖簾越しに店内を覗いてみるとカウンターとテーブルがあり、老齢の女性と男性が座って食事をしている。良かった、中で食べられるらしい。

 餃子のパワフルさとは全くベクトルが逆だが、良いかもしれない。宇都宮のそば。ここにしよう。滝山、すまん。餃子屋は俺が明日、当てずっぽで決めさせてもらうぞ。

 

 

 

6.

「いらっしゃいませえ」

 簡素な造りのカウンターの中には割烹着姿の白髪の女性。かなりの高齢のようだ。このおばあちゃんがそばを打っているんだろうか。店内を見渡してみると、老舗のそば屋というよりはやはり、小さい製麺所にイートイン用の座席が置かれたように見える。なんだか打ち立ての美味いそばを直に楽しめそうで、俺は少しわくわくする。

 カウンターに座り、鞄と脱いだコートを隣の座席に置く。パウチされた冊子型のメニュー表を手に取り、何を頼もうか考える。ざるそばあたりでこの店のそばをシンプルに楽しみたい所だが、今の俺の腹はもっと重量感を味わいたがっている。となると丼もののセットか、もしくは天麩羅そばのような大型の具が乗ったかけそばが良いだろうか。おっ、鶏そばというのも気になる。

 一体なにが正解なんだ、と悩みながらメニューを眺めていると、「かかしそば」なるものが目が留った。傍らに小さく写真が載っている。かけそばに、天麩羅らしきものがこんもりと盛られている。しかし天麩羅そばは別にある。なんだろう。

「すみません、このかかしそばって、何が乗ってるんですか」

 カウンター内の白髪の女性に訊いてみる。

「かかしそばはね、おそばの上に細切りの大根と、お野菜の天麩羅が乗ってるんですよ」

 へえ、初めて聴いた。なんだかここでしか食べられない匂いがぷんぷんする。よし、これにしよう。

「じゃあかかしそばを、ひとつ下さい」

 はあい、と答えながら女性が準備を始める。

「ちょっと待ってねえ、一人で切り盛りしてるもんだから」

「ええ、ゆっくり待ちます」

 メニュー表を戻し、ふと先客の方を見てみると、どうやらもう食事は済んでいるらしく、カウンターに置かれた雪平鍋から何かをおたまで掬い、それを湯飲み茶碗に入れて飲んでいる。注文したもののようには見えない。サービスで振る舞われたものだろうか。

「お兄さんも、甘酒、飲む?」

 俺の視線に気付いたのか、男性が俺に訊いた。甘酒だったんだ。

「あっ、すみません、ワタシ下戸なもので…」

 酒という言葉に反応して瞬間的にそう返してしまう。図体のせいかよく酒を勧められるから、すっかり癖になってしまっているんだ。

「ああそうなの?でも甘酒なんて子供でも飲むんだからさ」

 男性が新たな湯飲み茶碗に甘酒を入れ、はい、と俺の前に置いてくれる。確かに小さい頃に親戚の家で飲んだ記憶がある。少しくらいなら大丈夫だろう。まあもし駄目でも、今日はもう車に乗らないし宿も確保してあるから、大事には至らない筈だ。

「すみません、じゃあ少しだけ頂きます」

 湯飲みの中に溜まる、白く濁った甘酒。懐かしい香りだ、なんだか安心する。啜るようにして少し口に含んでみる。甘い。いや、しょっぱい。甘じょっぱいぞ、この甘酒。甘じょっぱ酒だ。

「塩を入れてあるからね、それ。ちょっとしょっぱいでしょ」

「ええ、美味しいです」

「塩が無いと甘いだけだからねえ」

 甘酒なんだし甘いだけでも良いとは思うが、これはこれで独特で良い。

 変に酔っぱらわないように慎重に口に運んでいると、暫くしてカウンターの一段上に大きな丼が置かれた。

「はい、かかしそば、お待たせね」

 来た来た。お盆に乗せられたそれをゆっくりと自分の前に降ろす。

 濃い色のつゆに浸かったそば、その上に刺身のツマのように細く切られた大根が盛られていて、そこに三方から寄りかかるようにして、茄子、春菊、玉葱の天麩羅が乗せられている。そして頂上には刻み海苔。かなりインパクトあるぞ、これ。

「あとこれもどうぞお」

 小鉢が一つ出された。見てみると人参と大根のなますだ。柚子の皮も入ってる。

「ありがとうございます」

 よし、まずはなますから食べてみよう。

「いただきます」

 箸でつまみ、口に放り込んで、噛む。シャキシャキと良い音がする。ああ、これは美味しい。酸味も丁度良いし、野菜の甘みもしっかりある。なにより柚子の美しい香りと適度な苦味が全てを引き立てている。食欲が沸いて来る。これは単なる箸休めじゃないぞ、しっかり嬉しい小鉢料理だ。やるなあ、おばあちゃん。益々期待が膨らむ。

 そして本丸、かかしそば。先ずは天麩羅と大根の隙間から箸を入れて、そばを味わってみる。箸でそばを持ち上げてみると、その手打ち感がよく解る。ツルツルして瑞々しくて、その太さにほんの少しバラつきがある。なんとも美味そうじゃないか。

 口元に持って来て、冷ますために息を吹き掛けようとして、あれ?と思う。全然湯気が立ってない。もしかしてこれって…。

 一思いにそばを啜り上げる。やっぱりだ。冷たい。かけそばだけど、つゆは冷たいんだ。そこに揚げたての天麩羅から移った温もりがある。へえ、これは面白いなあ。立て続けにそばを啜る。美味い。角が立っていて、コシがしっかりしていて香りも高い。これは良いそばだ。今度は大根と一緒に啜ってみる。うん、良い。大根の爽やかな食感とそばの深い味わいが上手くマッチしてる。ツマと冷たいそば、いいじゃないか。さあ、天麩羅はどうだろう。

 まずは春菊だ。熱々の天麩羅のサクサクとした歯触り、次いで春菊の香り。美味い。これ、エグみみたいなものが全然無いぞ。凄く奇麗な味だ。合間にそばを啜ると、つゆがそれこそ天つゆのように濃いめの味になっているのに気付いて、とても合うのが解る。

 次は茄子だ。噛むと、サクっときて、フワッとくる。おお、甘い。柔らかくなっているがトロットロというわけじゃない。身の繊維の食感が残っている。茄子の微かな青臭さが心地良い。次に箸をつけたかき揚げ状の玉葱も、これまた美味い。野菜が持つ旨味がしっかり出ている。玉葱の香りって、良いスパイスなんだなあ。

 かかしそば、正解。それも大正解だ。

 俺は夢中になって食べた。食べ進めていると、天麩羅の油がつゆに染み出して来て、丼の湖面がキラキラと輝き始める。冷たく爽やかなそばに油の旨味が加わり、新たな食欲が沸いて来る。美味い、美味いぞ、宇都宮のかかしそば。

 

 

 

7.

「ふう、ごちそうさまでした」

 美味しかった。餃子包囲網の中で食べるそば。なんだかひねくれ者みたいだ。それでも全然かまわないじゃないか。いつどこでどんな出逢いがあるかなんて、誰にも解らないんだ。

 仕度を整えながらカウンター越しに代金を支払い、「かかしそば、美味しかったです」と白髪の女性に伝える。

「美味しいでしょう、あんまり無いでしょうこういうの」

「ええ、初めて食べました」

「お兄さん、どこから来たの?お仕事?」

 今日は二度目だ、この質問。

「東京から仕事で来ました。昼間は喜連川の方におりまして、今夜は宇都宮で一泊します」

「あらお忙しいのねえ。喜連川は温泉があるの知ってる?」

「はい、道の駅を見つけまして、そこで入りました。大変良い湯でした」

 そう言うとおばあちゃんはとても嬉しそうな顔をする。

「あと、温泉パンというものを見つけまして、風呂上がりに買って食べたんですけど、美味しかったですねえ」

「あら私も好きよ、温泉パン。色々味があって美味しいのよねえ、温泉は全然関係ないんだけど」

 え?…え?

「あのー、あれって、タネに温泉の湯を使ってるとかじゃ、ないんですか?」

「そう思われる方も多いんですけどね、温泉は全然使ってないんですよお。温泉のそばで売ってるパンだから、温泉パン。それだけなのよお」

 えー…。そうなんだ。温泉、関係無いんだ。

「そうだったんですかあ、いやあ知りませんでした」

 身体の外も内も温泉だなんて嬉しがっちゃったのが、なんだか恥ずかしくなってくる。肩すかしだけど、でもそれも面白いかもしれない。温泉は入ってないけど、温泉パン。なんとも可愛らしいじゃないか。

「また、おそば食べに来ますね。ごちそうさまでした」

 出入り口に歩きながら、まだ甘酒を嗜んでいた男性にも一声かける。

「甘酒、ごちそうさまでした」

「いやとんでもない。おっ、お兄さん、ちょっと顔が赤いね」

「えっ、そうですか」

 まさか。湯飲み茶碗半分の甘酒で俺は酩酊してるんだろうか。そういえば冷たいかけそばを食べたのに、身体はぽかぽかと暖かい。

「まあ、気をつけてな。またいらっしゃい」

「はい、ありがとうございます」

 改めて礼を言い、俺は店の暖簾をくぐった。

 

 

 

8.

 宇都宮はすっかり夜だ。先ほどより星の光がくっきりしている。冬の夜なのにあまり寒くない。やはり俺は酔っているのだろうか。なんだかホテルの部屋にすぐ帰るのも寂しいし、また餃子包囲網を抜けて商店街の方まで散歩してみよう。

 俺は大通りをふらふらと歩きながら、まだあの心のもやもやはあるだろうかと確認してみる。美味いそばを食べて甘酒で酔っても、やはりまだもやもやはあるようだった。一体どうしちゃったんだろうか、俺は。

 ファッションビルのある交差点を曲がり、アーケード商店街に入る。さすがにこの時間だと閉まっている店も多く、人通りも少ない。たまに擦れ違う酔客だけが騒々しい。でも今の俺も彼らを揶揄する事は出来はしない。

 暫く歩いていると、不意に左側から強く風が吹き込んで来た。俺は思わずコートの襟を立てる。そうだ、この商店街には大きな広場があったんだ。

 イベントは行なわれていなかったが、広場の奥のステージにはきらびやかな電飾が施されていた。ステージの壁面を照らす白い光と、それを大きく覆うガラス張りの屋根の青い光、そして散りばめられた星のようなオーナメント。思わず、綺麗だ、と口に出してしまう。

 その瞬間、俺の心のもやもやが一気に霧散したような気がした。俺は何かを思い出した。そして同時に、奥底から何か焦りのような別の感情が沸き上がって来た。忘れていたものが、怒濤のように押し寄せるのが解る。

「えっ、嘘。俺、もしかして」

 まさか、そんな馬鹿な、と俺はそれを打ち消そうとする。しかし光り輝くステージから目を離せない。いや正確に言えば、あの時に見たステージの光景が重なって、その情景を見つめ続けてしまう。

「酔ってるんだ、俺は」

 苦笑いしながら呟く。それでも俺の心の動揺は収まらない。そんな、まさか。違う、違うよ。この俺が、アイドルにまた逢いたいだなんて、思うわけがないじゃないか。

 俺の記憶がまるで立体映像のようになって、誰もいない夜の宇都宮のステージに投射される。光り輝く笑顔、可憐に舞い踊り、栃木県の歌を一生懸命唄う少女達。まるで人間の生そのものを目の当たりにするような、深い感動。そして初めてアイドルと握手する俺に優しく接してくれた彼女達の言葉を、俺は忘れられないでいる。俺は静まり返った商店街に一人ぽつねんと立ち尽くす。

 

 ...そっか、今日は彼女達、ここにはいないんだ。

 

「いかん、いかんぞ!」

 俺は無理矢理自分を奮い立たせる。俺はアイドルの親衛隊にはならないし、なれない。そういう男なんだ。急に宇都宮に一泊する事になって、心がゆるんでるだけだ。疲れてるんだ。酔っぱらってるんだ。そうに違いない。あれ甘酒じゃなくて、ただの濁り酒だったんじゃないか?

 俺はステージから目を離し、踵を返してホテルへと足早に歩き始める。もやもやが消えた心地良さと、言い知れない焦りはまだついてくる。どうにかしたいがどうすればいいか解らない。

 そうだ、餃子を食おう。まだ腹に余裕はある。適当な店に入って、それなりに美味しければ滝山に薦めればいい。そうしよう。あいつは全く美食家なんかじゃないんだ。

「疲れに良いんだ、餃子は、疲れに」

 言い聞かせるように呟きながら、俺の足取りはいつの間にか楽し気に弾んでいた。

 

 

 

 

 

【短編】孤独のグルメ『栃木県宇都宮市の高校生一人サイズの焼きそば』

 

 

 

 

 

   孤独のグルメ『栃木県宇都宮市の高校生一人サイズの焼きそば』

 

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1.

 餃子、餃子、餃子、餃子。

 右を向いても左を向いても、「餃子」の二文字が眼に飛び込んで来る。まるで街全体が、餃子以外は食わせないぞとでも言っているようだ。餃子包囲網。JR宇都宮駅を出た俺はその風景に半ば唖然としつつ、この街の全力餃子推しに静かに感動していた。

「さすが、餃子の街」

 思わず独り言が漏れる。不思議な場所に来てしまった。宇都宮は、餃子とジャズと、あと確か、カクテルの街。餃子もジャズも大好物だが、残念ながら下戸の俺にはカクテルは関係無い。しかし餃子とジャズとカクテルなんて、はちゃめちゃというか欲張りというか…。

 コートの襟を直して、駅から続く陸橋を降りる。飲食店で埋め尽くされた大通りを少し進むと餃子包囲網が解け、そして急に風景が開けた。橋だ。片側三車線の道路とその両端に広く取られた歩道を乗せた、眼の前いっぱいの大きな橋。その上に覆い被さるように正午の晴天が拡がり、ほーっと思って橋の中程に立って欄干に凭れてみると、成る程とても気持ちが良い。橋の下を流れる大きな川の、その静かな水音も心地良い。思わず深呼吸してしまう。ついさっきまで餃子の渦の中にいたのに、本当に不思議な街だ。どうやら川はゆったりとしたUの字型を描いて、先ほどの餃子包囲網とは逆、大通りの向こう側へと続いて行ってるようで、この辺りを俯瞰したらまるで離れ小島の突端のように見えるのかもしれない。

 思わず旅情が溢れて来るが、先ずは仕事だ。

 

2.

 木枠のガラス戸を開け、「こんにちは」と店内に声をかけると、こちらが自己紹介をするより先に「あっ、井之頭さんですか」という声が飛んで来た。重厚な造りのカウンターの向こうに、如何にも老舗の喫茶店のマスター然とした初老の男性がにこやかに立っていた。

「はい、お約束頂いた井之頭です」

 コーヒーの良い香りと煙草の匂いが微かに漂っている。店内にはマスターの姿しかないが、つい先ほどまでは客がいたようだ。

「遠い所までわざわざありがとうございます、ささ、こちらへどうぞ」

 促され、奥のテーブル席に座りながらコートを脱いだ。マスターの「井之頭さん、ホットコーヒーで宜しいですか」という言葉に俺は「いえ、おかまいなく」と月並みの返事を返す。

 店内を何気なく見渡してみると、壁にはフランソワ・トリュフォーなどの古いヨーロッパ映画のポスターが飾られ、店内奥の本棚にはぎっしりと映画のパンフレットが詰め込まれている。カウンターにはVHSやDVD。映画好きのための、映画好きによる喫茶店なのだろう。

 暫くして、火にかけられたケトルの蓋が踊る音、挽いた豆に湯が少しずつ注がれる音が静かに聴こえ、そしてソーサーに乗せたコーヒーカップと共にマスターがカウンターから出て来た。俺の眼の前で細い湯気が幾筋か揺れる。

「どうぞ、お召し上がりください」

 カップを置き、どっこいしょ、とマスターが向かいの席に座る。

「ありがとうございます、頂きます」

 カップを口につけ、少し啜ってみる。酸味より甘みが強くコクが深い、俺好みのコーヒーだ。

 発注の依頼は、コーヒーカップではなくティーカップだった。最近はコーヒーを好まない若い客も増えたため、紅茶のメニューを増やそうと考えていたのだと言う。その上で、紅茶を出す時にはそれ専用の、出来ればヨーロッパ製のティーカップで出したいという事だった。輸入雑貨を個人で商っているフットワークの軽い俺がまさに適任だった。

「私が直ぐにご用意出来る商品がこちらになります」

 俺は持参したノートパソコンをマスターの方に向けた。画面上には注文通り、ヨーロッパ製のティーカップの写真がズラッと並んでいる。朝顔型、筒型、無地の物から内側にも模様が入った物。マスターはそれを眺め、これもいいなあこっちもいいと嬉しそうに悩み始めた。俺は「ごゆっくり、お選び下さい」と小さく告げ、席を立って再び店内を眺めた。

 トリュフォーゴダールフェリーニブニュエルタルコフスキー。学生時代に都内の名画座で見た記憶が蘇る。膨大な量のパンフレットの中には、比較的新しいアメリカの映画や邦画の物もあった。常連客が置いて行った物もあるのだろうか。数年前に大阪の新世界の辺りに行った時、街の風景がまるでフェリーニの映画のようだと思ったが、ここ宇都宮はどうだろうか。ラース・フォン・トリアー?はたまた鈴木清順?いや、不思議な街だが決して奇怪ではないだろう。

 程なくしてマスターはイギリス製のティーカップ数個を決め、俺はノートパソコンを閉じながら「では詳しい納期などについてはまたご連絡さし上げます」と伝える。と、マスターが唐突に「井之頭さん、なにか宇都宮らしいものは召し上がりましたか?」と俺に訊いた。こういった質問をくれるのは、大抵が旅人に優しい人だ。

「いえ、こちらに着いてからはまだ。これから何か食べようかと思っていたところで。やっぱり、餃子が美味しいんでしょうか」

「ええ勿論。宇都宮の餃子は絶品ですよ、他のどこの県にも負けません」

 その自信たっぷりの口ぶりに、俺は不意に数年前に新聞で読んだ記事を思い出した。

「そういえば、静岡でしたっけ、あちらも餃子が有名で、ライバル関係にあるとか」

「ああー、浜松餃子ですか?」

 マスターの口元がどことなく皮肉めいた動きを見せる。

「ええ、確か県内の餃子消費量で一度宇都宮に勝ったとか…」

 マスターが「ハハッ」とまるで馬鹿馬鹿しいとでも言いた気な笑い方をし、「でもすぐに奪還しましたよ」と付け加えるように言う。

「そもそもね、井之頭さん、あれは浜松と宇都宮で、調査の仕方が全然違ったんですよ。浜松の方の調査方法は、結果がね、言い方は悪いけど水増し出来てしまうようなものだったんですよ。家計調査というものがありましてね、そもそも餃子というものが、店舗で食べるもの、持ち帰るもの、スーパーで売ってるもの、その中でも冷凍のものと色々あって、何がどう分類されるかという…」

「は、はぁ...」

 まいった。マスターの宇都宮餃子魂に火を付けてしまった。先ほど店内を眺めて、映画の蘊蓄を延々語られる事は少し覚悟していたが、まさか餃子の、しかも消費量の算出法について語られる事になってしまうとは予想だにしていなかった。マスターは微笑みながら、しかし眼の奥には誇りと対抗心が入り交じったような熱気をたたえながら、話すのを止めない。

「また両者の特徴なんですけどね、宇都宮も浜松も、どちらも中国北部の餃子がそのルーツにはなってはいるのですが、例えばウチの方では白菜を、アッチの方ではキャベツを使う事が多くて、いや例外は勿論あるんですがね、それもやはりそれぞれの土地の気候が…」

 どうしよう。もう餃子の話で、お腹が一杯だ。いや、話なんかで腹が膨れる訳が無い。自宅で朝食を取ってからかなりの時間が経っている。

 

 腹が、減った。

 

 「あの、あのすみません、私、次の商談がありまして」

 勿論嘘だ。マスターの餃子話を遮って大変に申し訳ないが、今すぐに何か食べたい。

 「あっそうですか、すみません長々と引き止めてしまいまして」

 「いえ、こちらこそ申し訳有りません。もっとお話をお聴きしたかったのですが…。またすぐに、ご連絡さし上げますので」

 椅子にかけていたコートを取り、マスターに改めて挨拶をしてから俺は慌ただしく店を出た。大通りに出て、コートを着る。

 宇都宮。さあ、何を食う。

 ここから駅の方に戻って餃子を食べるか。いや、あの餃子包囲網を思い出せ。どこもかしこも餃子餃子餃子。どの店で食うか悩んでるうちに日が暮れちまう。かと言って携帯電話で話題の餃子店を探そうなどとは思わない。飯との出逢いも一期一会。確かすぐ傍に大きな商店街があった。一先ずはそこで探そう。きっとその裏道にも食べ物屋が有る筈だ。

 

3.

 巨大なアーケード商店街。凄い。道幅は広く、眼を凝らしても出口がよく見えない。人はまばらだが、左右に色々なお店がひしめき合っている。たこ焼き屋、洋服屋、串焼き屋、カフェ、お洒落なバルみたいなものまである。勿論餃子屋も。焦らなくていい。ここは餃子とジャズとカクテルの不思議な街だ。いっそこのラビリンスに飛び込んで、たっぷりと迷ってみようじゃないか。

 暫くアーケードを進むと、ずっと店舗が軒を連ねていた商店街の左側が急に開けた。午後の陽の光がたっぷりと落ちて来ている。どうやらこの商店街の広場らしい。奥には立派な屋根付きのステージがあって、これから何かイベントが行なわれるのかスピーカーなどの機材が設営されている。俺は何気なくその広場に足を踏み入れてみた。

 観客は未だ少ないようで、見る所若い男性が多く、中にはお揃いの真っ赤なTシャツを着た者もちらほらいる。なんだろう、もしかして飲食関係のイベントだろうか?これから色んな食べ物が出て来たりして。そんな風に推測していると、よりお腹が減って来る。広場には特に屋台なども出ていなかったので、俺は広場を斜めに突っ切る形で商店街から伸びる横道に反れてみた。

 途端、風景が一変した。駐車場。住居。煤けた古いビル、これは映画館らしい。道の奥にはこれまた古く背の低い建物が肩を寄せ合っている。いかん、こっちにはお店は少なそうだ。引き返そう。

 再び商店街の方に向き直り歩き始めた所で、視界の端に何か見慣れない物が映った。先ほど見渡した時は、その建物の二階に洗濯物が干されていたため普通の住居かと思ったが、一階には白い暖簾が下がっている。左右に広いガラス戸の前に下げられたその暖簾には、黒ではなく殆ど灰色といった趣に掠れ切った字で「やきそば」とだけ書いてある。

「やきそば…?」

 それ以外何も書いてない。屋号すらも書いてない。ただ「やきそば」とだけ書いてある。こんな店構えは初めて見た。なんだか映画のセットみたいだ。そういえば以前、色々と地方の名物に詳しい滝山が栃木県は焼きそばも有名だと言っていた気がする。そうか、宇都宮は餃子とジャズとカクテルと焼きそばの街だったのか。

 ガラス越しに店内をそっと覗いてみると、店員らしき男性が巨大な鉄板で十数人分はあろうかという量の焼きそばを炒めている。そして簡素な木製のテーブルとクッション部分がドーナツ型になったパイプ椅子が並ぶ。情報量があまりに少ない。その不思議な空虚に吸い込まれるように、俺は気付いたら暖簾をくぐっていた。

 

4.

「いらっしゃい」

 鉄板の前の男性と、奥から出て来た老齢の女性が落ち着いた声で言う。実際に中に入ってみると、本当に妙な心地だった。食べ物屋というよりまるで地方のバスの待合所みたいだ。静かで、物が少ない。席についてコートを脱いだ俺は先ずテーブルを見渡してみる。ソースと七味が置いてある。七味はまだ解るが、どうしてソースが置いてあるんだろう。だって焼きそばって最初からソース味じゃないか。その横には、プラスチックのケースに入った、メニュー表ならぬ注意書きが置いてあった。手に取って読んでみる。

「ふむ。代金は先払い。ソースは一口食べてからかけるか決めてください…」

 なんだろう、味は付いてないんだろうか。

「具はキャベツのみです…?」

 えー、豚肉も人参も入ってないんだろうか。しかし俺はその次に続く文章にたまげた。

「不要の方は先に言ってください」

 うそーん。それしか入っていない貴重な具材である筈のキャベツが要らない、そんな事があるんだろうか。ストイックに麺だけを楽しむのが宇都宮流なんだろうか…?俺は欲しいぞ、キャベツ。

 メニューはどこだろう。壁を見渡すと、それらしいものがあった。小200円、中250円、大盛300円。成る程、焼きそばしか無いんだ。しかも安い。お祭りの屋台より安いんじゃないか。すっかりお腹ぺこちゃんな俺は直ぐさま大盛りを頼もうと思ったが、先ほど鉄板の上で炒められていた焼きそばの量を思い出した。まさかこの値段からは考えにくいが、化け物みたいな量が出て来たらどうしよう。不運な事に店内には客は俺しか居らず、大体の量を確認する事も出来ない。先達はあらまほしきことなり。

 悩みながらメニュー表を睨み付けていると、値段の下に小さく量の目安が書いてある事に気付いた。良かった、これで安心して注文が出来る。

 大盛りに書かれた目安を見てみると、「高校生一人」と書いてある。高校生。一人。えー。これはどうしたものか。宇都宮の高校生は一人でどれくらい焼きそばを食べるものなのだろう。大人には足りないんだろうか、それとも成長期の高校生は大人より遥かに食べるんだろうか。というかその高校生の体格はどれくらいで食欲は。ええいままよ、飛び込んだ不思議な街だ、俺は今一人の高校生になる!

「すみません、大盛り一つ、ください」

 女性に百円玉を三枚手渡し、軋む椅子に改めてどっしりと腰を据えた。俺は今高校生。ヨーロッパの家具や雑貨に興味を持ち始めた、多感で屈強で食いしん坊な17歳だ。

 そういえば、俺が17歳の頃はどんな日々を過ごしていたっけ。ガラス窓の向こうに映画館の入り口が見える。そういえばフェリーニの『ローマ』を見たのは17歳の頃だったかもしれない。確かあの映画、ローマに移り住んで来た若者が、夜にそこの人達と一緒にスパゲティを食べるシーンがあったな。真っ赤なソースが絡まっててハムとかの具材がたくさん入っててべらぼうに旨そうなんだけど、量が凄いんだ。大皿に山盛りになったスパゲティをそれぞれの皿にこれまた山盛りに取り分けていくんだ。えっもしかして、俺もこれからあんな量の焼きそばを食べる事になるのか?

 安心しろ、ここはローマじゃない、宇都宮だ。大司教もいないしトレヴィの泉も無い。あれ、トレヴィの泉が出て来るのって『甘い生活』だっけ?真夜中に美しい女性と二人で...

「はいお待ちどうさま」

 その声にハッとして眼の前を見ると、皿に盛られた一般的な量の焼きそばが置かれていて、俺は安心する。良かった、宇都宮の高校生が皆大食漢じゃなくて。

 確かに具はザク切りになったキャベツだけのようだ。そして麺が太い。まるで茶色い稲庭うどん。いや、麺が平たくない分こっちの方が太いかもしれない。ソースの香りがほのかに立ち昇って来る。

「いただきます」

 割り箸を取って、パキッと割っていざとばかりに麺の中に突き刺す。持ち上げる。重たい。ソースをかけるのは一口食べてから…と呟きながら恐る恐る啜ってみる。うむ、味はついているが確かにあっさりめだ、好みによってソースをかけたり七味をかけたりして楽しむんだろう。噛むと口の中でモソモソと音がする。麺の太さによるものなのだろうか、あまり水分量が無くて、食いでが凄い。一口一口がどすんと胃に入ってくるのが解る。唯一の具であるキャベツの甘さとシャキシャキとした食感が嬉しい。本当にキャベツ抜きで注文する人がいるんだろうか、いるとしたらちょっと会ってみたい、というか見てみたい。

 高校生になった俺は、まるでキツい部活帰りのような勢いで大盛りの焼きそばを一心に啜る。口一杯に入れてモソモソと噛んでどすんと飲み込む。そのままでも、ソースをかけても、七味をかけても、旨い。放課後に友達同士でファミレスでポテトなんかをつまみながらダベるのも良いかもしれないけど、こんな風にキャベツしか入ってない極太の焼きそばを一緒に食べるのも、絶対に楽しい筈だ。

 気付けばお皿はすっからかん。

「はー、ごちそうさまでした」

 300円でお腹いっぱい。嬉しい。

「すみません、お水頂けますか」

「お水そちらの方でセルフサービスになってますので」

 女性が答える。見ると厨房と席の間にいきなりシンクがあって、どうやらそこの蛇口で自分で水を入れるようだ。うーん、なんとも豪快。思わずガブガブ飲みたくなっちゃうけど、そこまで高校生ぶらなくても良い。一杯だけ飲んでお礼を言って店を出よう。

 

5.

 暖簾をくぐり、駅に向かうために商店街に戻る。広場ではいよいよイベントが始まっているようだった。大音量で音楽が鳴っていて、ステージ上では若い女の子がお揃いの衣装を着て踊っている。踊りながら歌も唄っているようだ。先ほど見た赤いTシャツを着た若者達が盛り上がっている。

「へえ、もしかして、栃木県のアイドルかな」

 そうか、彼らは親衛隊だったんだ。

 立ち止まって聴いていると、歌詞の中に餃子とか苺とか干瓢とか、いろは坂だの日光だの栃木県の色々な名物が盛り込まれていた。えーっと、宇都宮は餃子とジャズとカクテルと焼きそばと…それに苺と干瓢と紅葉と江戸村と…あー、もうお腹いっぱいだ。一体何回栃木県に来ればいいんだ。名物がありすぎる。目眩がしてきそうだ。

 ふと見るとステージの傍に一つだけテントが立てられていて、どうやらそこで彼女達のCDを売っているようだった。せっかくだから一枚、おみやげに買って行こうか。

「すみません、今歌ってた、栃木県の歌が入ってるCDありますか」

 頬がこけた、少し強面の売り子の男性に訊いてみる。

「こちらに入ってます」

「じゃあ、それ一枚ください」

「ありがとうございます、1,000円です」

 帰ったらこの曲を聴いて栃木県の名物について勉強してみよう。少なくとも、あの喫茶店にティーカップを納品する時にもう一度訪れる筈だ。

 千円札を渡し、袋に入れられたCDを強面の売り子から受け取る。

「ではこちら、CDと特典券です」

「えっ特典券」

 なにそれ。

「それ一枚でライブ終了後の握手会にご参加頂けますんで」

 えっ。握手って、あの子達と?誰が?俺が?

「無くさないようお気をつけ下さい」

「は、はい…」

 どうする俺。CDが欲しかっただけなのに。アイドルと握手なんて、あまりに予想外の展開だ。第一俺はあの子達の事を何も知らない。良いんだろうか。誰か親衛隊の人に券をあげてしまおうか…。いや、俺が高校生だったらどうしていた?部活帰りで、具がキャベツだけの焼きそばを腹いっぱい食べて、歯についた青海苔なんかも気にする必要も無くアイドルと握手出来るとしたら…?

 俺は特典券とやらを片手に握りしめたまま、栃木県のアイドルのライブをぼーっと眺めていた。

 

 

 

 

 

【短編】Gate:真山りかの場合(改稿)

 

Gate:真山りかの場合 

〜もしくはエビ中ファミリーに贈る仮面ライダーウィザード入門編〜

 

 

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魔法の指輪、ウィザードリング。現代を生きる魔法使いはその輝きを両手に宿し、絶望を希望に変える。

 

 

1.

 

 新しく買ったボールペンはインクが掠れる事やダマになる事もなく、自分の思った事を素早く淀みなく紙の上に残してくれる。しかしその快適な書き味のせいで立ち止まって考える時間が持てなくなり、ページを出来損ないの残骸だけが埋め尽くして行った。

 コンサート当日まで貸し切りになっている会議室には、衣装、小道具、幾つかの撮影機材、数種の画材や文房具、そして彫刻刀等の木工用の道具が所狭しと置かれている

。並べられた事務机の一角で埃避けのビニールを被せられた巨大な未完成のオーナメントを傍目に、真山りかは一人悩んでいた。手帳の空白のページに何度も何度も言葉を書いては傍線やぐちゃぐちゃな線で消す。出来るだけ文字数は少ない方が良いとスタッフに言われていたのに、どうしても出て来る言葉は十文字前後のセンテンスになってしまう。文字数が多ければ必然的に彫られる言葉のサイズは小さくする他無く、そうすれば広い会場の後方では視認出来なくなる。しかし想いを一言に託す事は、想像以上に難しかった。

 携帯電話の時計を見ると時刻は既に午後八時をまわっている。今日はオーナメントに最終的に施すデコレーションの案までは出せた。彫りつける言葉はまた明日中に考える事にして、りかは帰り支度を整えて事務所を出た。

 十二月の冷気が容赦なくマフラーの隙間やコートの裾から入り込んで来る。平日とは言え繁華街の夜は明るく騒がしい。イヤフォンから流れるアニメソングに出来る限り感覚を集中させながらりかは駅までの道を歩く。口元まで巻いたマフラーの中で一緒に囁くようにして歌う。自分の声と音楽が頭の中で混ざり充満し、そうしていると例年より厳しい寒さを少しだけ忘れる事が出来た。帰宅したら寝る準備を整えて、そして眠くなるまでオーナメントに彫りつけるべき言葉を考えるつもりだ。

 普段はなるべく避けている、駅までの近道となる細い裏道に入った直後だった。背後で急に足音が響いた。いや、それは足音と呼ぶには大きすぎた。かなりの音量で聴いていた音楽でもかき消す事が出来ない程だった。まるで何かが高い所から落ちて来たような。

 りかは咄嗟にイヤフォンを耳から外して振り返った。高音だけが漏れ出たアニメソングが耳元で鳴る。ビルに挟まれた薄暗い路地に、繁華街の光を背にして何かが立っていた。

 大きい。高さは優に2m以上はあると思われる。直立した人間の形をしているが、そのシルエットと言うべきか様相と言うべきか、まともな人間のそれでは無かった。りかは何か看板か、それとも巨大な人形かと思った。それは今までの人生の中で一度たりとも見た事が無い、異形の者の姿だった。

 ゆっくりとそのシルエットが動く。

「お前がゲートか。さあ、さっさと絶望してもらおう」

 異形の者が声を発し、こちらに向かって歩き始める。りかは混乱した。これまで感じた事の無い恐怖を覚えた。これは生きている。こちらに向かって歩いて来ている。意志を持っている。近付く程にその姿の奇怪さが解ってくる。青黒い全身に歪な鎧のような物を纏い、身体の所々には爬虫類のような鋭い突起が生え、頭部には白目と黒目の区別が無い、黄色く濁った眼が三つあった。

 こんな物の呼び方をりかは一つしか知らない。"化け物"だ。

 逃げたい。足がすくんで動けない。どうすればいいのかを全く考える事が出来ない。重たい足音が近付き、りかは錯乱する。目の前まで迫った化け物が手を振りかざす。その手には、異様な形をした剣のような物が握られている。りかは自分の身に起こる事を直感した。

 —殺される。

 りかが身構える間もなく、月明かりを不気味に照り返すその剣が振り下ろされようとした瞬間、何かが爆発したような音が響いた。化け物が呻きながら後退する。その身体から煙が上がっている。ただ呆然としているりかと化け物の間に、新たな人影が降りて来た。りかは未だ音楽を鳴らし続けているイヤフォンのコードを握りしめたまま、それを凝視した。ローブのような黒いロングコートの背。その腰元には帯と呼ぶには些か幅が広い銀色の何かが巻き付いている。人影が振り返り、その何かがベルトである事が解る。人の掌を模した大きなバックル。りかはそこから少しずつ視線を上げていく。宝石のような物が付けられたコートの胸元。立てられた短い襟。そして、仮面。コートのそれと同じ、ルビーのような深紅の宝石に包まれた仮面。

「怪我は無いか」

 化け物が発したものとは違う、人間らしい声がした。りかは一瞬、二体目の化け物が現れたのかと怯えたが、その若い男のものと思われる声には、自分を脅かす気は籠っていないように思えた。

 りかが思わず頷くと、仮面の男は安堵したような仕草を見せ、化け物の方に踵を返した。狭い路地にコートの裾がはためく。そしてまたあの爆発音が鳴り響く。どうやら仮面の男は銃のような物を持っており、それで化け物を攻撃しているらしかった。

 りかは銃声が響く度に身を震わせる。化け物の呻き声が硝煙の向こうから聴こえる。

「クソ、指輪の魔法使いウィザードか!」

 それに続く、化け物の叫びを一笑に付すような声。

「待たせたな。さあ、ショータイムだ」

 仮面の男は手にしていた大きな銃を剣のような形に変え、その身体を華麗に翻しながら化け物の身体を斬り付けた。化け物が低い歪んだ声で絶叫する。火花が散り、その度に路地が一瞬光を抱く。

 ・・・魔法使い?

 りかはその言葉を聞き逃さなかった。まさかこの仮面の男が魔法使いだとでも言うのだろうか?三つ眼の化け物だの仮面を被った魔法使いだの、自分の常識の内に無かった物が立て続けに現れ、りかはただ混乱し立ち尽くす他なかった。しかし目の前では魔法使いと呼ばれた仮面の男が銀色の剣で化け物を攻撃し、圧倒している。

「俺は夜道で女の子を襲うような卑怯者が心の底から嫌いでね」

 仮面の男が何かを指に嵌めて、その手をベルトに翳す素振りをした。瞬間、眩い光が辺りを照らし、路地の四方から鎖のような物が飛び出して化け物の身体に巻き付いた。化け物が怯み、その鎖を解こうと身体を大きく動かす。しかし鎖は相当頑丈らしく外れる様子は無い。銃声の群れが三たび鳴り響き、化け物の身体が火花を吹き上げる。

 仮面の男がまた先ほどと同じ動作をする。どうやら指輪を次々と付け替えているらしかった。今度は辺りが真っ赤な光に包まれる。それはまるで美しい炎のような。

「これで終わりだ」

 仮面の男が姿勢を低くした。赤い光が一層強く輝く。地響きが鳴る。—何かが起こる、とりかが身構えた瞬間、鎖で拘束されていた筈の化け物の身体がどろどろと溶け出した。三つ眼の化け物はそのまま地面の中に吸い込まれてしまい、辺りは夜の静けさを休息に取り戻した。

「逃がしたか」

 仮面の男が呟く。

 りかは本当に少しずつ、今の状況を頭の中で整理しようとした。

 私は化け物に襲われ、そして指輪の魔法使いと呼ばれたこの仮面の男に助けられたらしい。常識では到底考えれない光景だった。しかし言い様の無い恐怖は少しの安堵に代わり、そして、数えきれない疑問がりかの頭に沸き始めた。

 りかは思わず口を開く。

「あ、あの、あなた、何なんですか?どういう事、なんですか、これ」

 焦りながら問いかけた。仮面の男が振り向き、こちらに歩き始める。りかは思わず後ずさりする。

「恐がらなくていい。俺はただの魔法使いさ。お前の希望を守りに来たんだ」

 瞬間、黒いロングコートの全身が眩い光を纏ったかと思うと、若い男の姿に変わった。人間だ。二十代前半くらいの。光沢のある生地の薄いライダースジャケットに赤いムラ染めのカットソー。決して地味な格好とは言えない。りかはその一瞬の早変わりのような変貌に驚きながらも、頭の隅で「あっ、イケメン」と思ってしまった自分に呆れる。

「あの、あなたは、人間なんですか?あの化け物は何なんですか?それに、魔法使いなんて、そんな事言われても、わ、解らないっていうか、理解が、あの、何なんですか?」

 りかはそう辿々しく返しながら、もしやと思い周囲を見渡した。路地の入り口、建物の窓、巨大な室外機の影。

 どうした?と青年が訊く。

「これもしかして何かの撮影ですか?映画とか?もしくはドッキリとか?あの、どこのテレビ局さんですか?私、ぜんぜん聴いてないんですけど」

「映画なんかじゃないよ。テレビでもない。それに、一般人にこんな手荒なドッキリを仕掛ける番組があるかい?」

 りかの早口の詰問に青年が苦笑しながら答えた。

「あっ、でも・・・あの、あたし、一般人じゃないです」

「え?」

 驚いた表情の青年に、りかはマフラーを外し、そしてバッグから一枚のCDを取り出した。

「いちおう、これでもアイドルやってるんです。ほら、これ、九人いる中の、左から二番目」

 CDを受け取った青年はジャケットに写ったりかの姿と、目の前のりかの姿を何度も交互に見た。眼を丸くして見比べるその姿にりかは苦笑しながらも、見知らぬ男性に自分がアイドルだと言ってしまった事を後悔し始めていた。これが新手のナンパだったら、事務所からこっぴどく怒られてしまう事は間違い無い。

 

 

2.

 

 翌日、りかはグループのマネージャーである藤井と共に、繁華街から少し離れた所にある面影堂というアンティークショップを訪れた。昨晩のあの青年、操真晴人(そうま・はると)がそこで詳しい事情を説明してくれると言ったのだ。

 店内には応接間のような一角があった。低いテーブルを挟んでソファに座ると、りかの前には晴人が、そしてその隣にはりかと同年代らしき少女が座った。どこかのアイドルグループで見た事があるような、清楚で可愛らしいが何処か影のある少女だった。お互いの簡単な自己紹介の中で、その少女がコヨミという名前で、晴人の助手を務めていると解った。

「操真さん、うちの真山を襲ったって言う奴は何なんですか?あなたは、そしてゲートって一体何なんですか?」

 藤井が晴人に向かって捲し立てる。明らかに苛立っている様子だ。

「マネージャーさん、あんまり焦らないで下さい。とりあえずここにいれば彼女は安心です」

 コヨミがなだめる。

「そんな話はしてない。それに安心っつったって、これから仕事があるんです、すぐに大きいライブだってあるし、やる事はたくさんあるんだ」

 藤井の語気がだんだん強くなって来る。晴人が応える。

「事情は解ります。ですが、りかちゃんの安全が最優先でしょう」

「それはそうだが・・・」

「彼女は必ず、俺が守ります」

 晴人はそう言うと、りか達の疑問にひとつずつ答え始めた。

 先ず昨日の化け物は、ファントムという怪物の一体であり、ある種の人物を襲っているという事。その人物はゲートと呼ばれる、生まれつき他の人間よりも魔力が潜在的に高い存在らしい。魔法使いである晴人は、ファントムの企みを阻止しゲートを守るために日々戦っているのだと語った。

「じゃあ、あたしが、その、ゲートだって言うんですか?」

 りかが問うと、晴人は黙って頷いた。

「ちょっと待ってくれ操真さん、そんな話俺は信じられない、大体なんだ、ファントムとか魔力とか魔法とか」

「信じられないのも無理はありません。ですが現実に、りかちゃんはファントムに襲われてる」

「俺が実際に見た訳じゃない!どうせそんなもん、着ぐるみか特殊メイクだろう?操真さん、あんたが全部やってるんじゃないのか!?そこの女の子も手伝って!!」

 藤井の激昂する様を、晴人とコヨミが強い視線で見つめる。りかは藤井に向かって静かに話す。

「待って藤井さん、あれは着ぐるみなんかじゃなかった。あたし、本当に化け物に襲われたの。だってあの化け物、最後は溶けて消えちゃったんだから」

「消えたって、夜だったんだろう?何か見間違えたんじゃないのか。だから人気の無い道を歩くなって」

 藤井が肩を震わせながら言う。

「違う!あの時はあたしも気が動転してて、ドッキリなんじゃないかって思ったけど、あれは・・・」

「あれは、なんだよ」

「あれは・・・、人間じゃない」

 りかの言葉に、藤井は押し黙った。

 藤井の興奮が治まるのを待ったのか、暫くしてから晴人が口を開いた。

「藤井さん、ちょっと見ててくれ」

 そう言うと晴人はポケットから指輪を一つ取り出し、それを右手の中指に嵌め、ベルトのバックルに翳した。深い橙色をした宝石が埋め込まれた指輪で、竜が輪をくぐるような意匠が施されている。

 その瞬間、指輪とバックルが光りを放ち、晴人の傍に赤い円盤型の光が現れた。藤井が声も出せず驚く中、晴人はその光の中に手を差し入れる。手は魔法陣のような模様を纏ったその光を通り抜けるかと思いきや、まるでそこでぷっつりと切れたように見えなくなり、そして晴人が光から手を引き抜くと、粉砂糖がまぶされたシンプルなドーナツが指先に現れていた。

「嘘だろ・・・」

 藤井が声を漏らす。光の魔法陣が消え、晴人はその何処からともなく現れたドーナツを藤井の眼前に掲げた。

「藤井さん。魔法は実在する。ファントムも、実在する。そしてファントムと戦えるのは、魔法使いだけだ」

 藤井は黙ったままそれを聴いた。そのまま暫くの間無言になり、そして落ち着いた、しかし震えた声で晴人に問いかけた。

「・・・じゃあそのファントムとかいう化け物は、うちの真山を襲って、どうしようって言うんだ」

「ファントムの狙いは、ゲートを絶望させる事。あらゆる手を使ってゲートの希望を打ち砕こうとする」

「それで、それでどうなる。絶望した真山は、どうなるんだ」

 晴人は一呼吸置いてから、藤井の眼を真っすぐに見つめながら答えた。

「絶望したゲートは命を落とす。そして、新たなファントムをその身体から生み出す」

 沈黙。

 藤井は晴人の眼を見たまま動かず、りかも絶句を隠す事が出来なかった。

 あの化け物に襲われて、私が死んで、新しい化け物を生み出してしまう・・・?

 藤井が晴人からりかに眼を移した。りかも何も言えぬまま、藤井の眼を見た。今までに一度も見た事が無い、深い哀しみを湛えた眼だった。それに耐えきれず、りかは視線を逸らす。

「晴人さん、あたしはどうしたらいいんですか・・・?あたしはまだまだやる事があるんです、今のグループで、夢もあるし、やらなきゃいけない事だってあるし・・・・、死にたくなんかないです!」

 りかは思わず声を荒げた。

 晴人は指に嵌めた魔法の指輪をりかに見せ、表情を変えず、いや、少しだけ微笑みながら答えた。

「大丈夫、そのために俺は君の前に現れた。りかちゃんの希望は、絶対に俺が守ってみせる」

 

 

3.

 

 ノートに言葉を書こうとする。自分が化け物に狙われていると解ったせいもあってか、これまで以上に言葉が出て来ない。まだオーナメントに彫りつける言葉を考えられていないのはメンバーの中でりかだけだった。

 りかは席を立ち、すでに言葉を彫り終えている他のメンバーのピースを眺めた。光、夢、トモダチ、家族。そんな言葉達が不器用な形で彫りつけられている。どれもこれも、メンバーの素直な想いの現れだった。

「そんな大きい物、何に使うの」

 会議室の隅でドーナツを頬張っていた晴人が訊いた。

「これはね」とりかは応える。

「二十四日のクリスマスイヴコンサートで使うの。ステージの上の方に飾って、演出

の目玉になるんだよ。こうやって全部をくっつけると・・・ほら、大きなハートになるの」

 りかはピースを机の上で継ぎ合わせた。ふうん、と晴人が呟きながら、オーナメントのピースを一つ手に取る。それはごく軽い木材で出来ており、一辺は丸まっているがもう一辺は切り落とされたように真っすぐになっていたりと不揃いで、一つ一つがバスケットボールより一回り大きいくらいだ。これがパズルのように九個連なり、巨大なハートマークを形作る事になる。

「家族、か。この字は君達が自分で彫ったの?」

「そう。みんな一つ、グループやファンの方への想いを彫りつけてるの。今までで一番大きな会場でやれるコンサートだから・・・。知ってるでしょ?講談ホール。四千人も入るんだよ!」

「へえ、それは凄いな」

「うん、もうチケットもね、売り切れてるの。その感謝も込めて、皆で作ったこれを飾るの」

 晴人がピースを一つ一つ眺めていく。

「メンバー、りかちゃんを入れて九人だったよね。言葉が彫られてる物は、まだ八個しか無いみたいだけど」

 晴人の問いにりかは眼を伏せ、ノートの方を見遣った。

「うん、あたしがね、まだ書けてないの。なんだか迷っちゃって・・・」

 りかのその表情を見て、晴人がもう一度オーナメントのピースを見渡す。

「そうか。確かに、想いを一言で表すのは難しいかもしれない」

「うん・・・。でも、だからってね、テキトウには絶対に済ませたく無いの。ちゃんとあたしの想いを言葉にしたいの」

 りかが「だって、このオーナメントはあたしの・・・」と言いかけた時、会議室の扉が開いた。藤井だった。

「りか、もうレッスン始まるぞ。メンバーも揃ってる」

「解った、すぐ行く」

 仕度を整えるりかを見ながら、晴人が藤井に「俺も見学していいかな」と訊いた。

「ああ、邪魔にはならないようにな。あとレッスンの内容は絶対に口外しないでくれよ」

「勿論」

 藤井とりかに続いて晴人も会議室を出る。二人の背を見ながら、りかはメンバーの事を思った。巡回の時間なのか、青い制服を着た警備員と廊下で擦れ違った。

 

 講談ホールのステージはこれまでコンサートを行なって来た会場とは比べ物にならないくらいに広い。フォーメーションの幅を大きく調整したり、左右だけでなく奥へと広がる客席へのアピール方法を考え直さなければいけなかったりと、これまでのコンサートとは気持ちを入れ替えて挑まなければいけない事柄が多かった。踊り慣れている曲でも新たにホール用のレッスンを重ねなければいけない。本番まではあと数日しかなく、遅くとも前日からは全体を通しで行なう、ゲネプロと呼ばれる本番さながらのリハーサルが始まる。余裕は決して無かった。

 レッスン場の壁一面に設えられた鏡の前で、他のメンバーとの間隔や自分のフリの大きさなどを同時に確認しながら踊る。コレオグラファーの先生から間断なく檄が飛ばされる。しかしその間も、りかはオーナメントに彫りつける言葉についえの考えが止まなかった。早く完成させなければいけない。あのオーナメントはクリスマスイヴコンサートの、重要な象徴になるのだ。

 何曲かのレッスンの後、二十分間の休憩に入った。かなりキツいレッスンの筈だったが、グループ最年少のひなたや仲の良い莉奈が全く身体を休める事無くはしゃぎ回っている。そこに如何にもアイドルらしい天真爛漫さを持った美怜が加わり、レッスン場はまるで保育園の自由時間のようになる。普段ならりかもその輪に入ってただお互いの手を掴んでぐるぐる回ったり等のたわいも無い遊びに興じていたのだが、今はどうしてもそういう気分になる事が出来なかった。

 ふと見ると、晴人はレッスン場の隅で微笑みながら他のメンバーがはしゃぎ回る様を眺めていた。

 もし今ここでファントムが襲って来たらどうしたらいいのだろう。晴人は自分を守ってくれると言ったが、それでもスタッフや、他のメンバーを巻き込んでしまう事に変わりは無い。

「真山、疲れちゃった?」

 りかと同学年の瑞季が傍に来て座った。彼女はこのグループの結成当時から共に活動し続けている旧知の仲だった。

「いや、大丈夫。ちょっと考え事っていうか」

「なにを?」

 瑞季が心配そうに訊く。

「いやっ、別に変な事じゃなくてね?会場が大きいから、あたしはどうやってファンの皆にアピールしようかなー、とか」

 りかは取り繕う。

「そうかー。私もそこは悩んでるかな。でも、あんまり一人で思い詰めないでね、みんなで作っていこうよ」

 瑞季が微笑みながら言う。そこに後ろで騒いでいたメンバー達が駆けて来る。

「真山もほらこれ見てよ!さっきすっごい面白い写メ撮れたんだから!」

 ひなたがまるで子供のような満面の笑みで携帯の画面を見せる。画面にはアイドルとは思えない酷く歪ませた顔で写るなつと彩花、その前でこれまたおかしなポーズを取っている裕乃とあいかの姿が映し出されていた。思わずりかも吹き出す。そうして結局はメンバー全員が大騒ぎを始めた。いつも通りの休憩時間の風景だった。その嬌声の中で、りかは晴人が何処かに電話をかけながらレッスン場を出る所を、視界の端で捉えていた。

 

 

4.

 

 りかは、家族には「コンサートの準備が大詰めで、少しの間事務所の近くに泊まる」と伝え、実際は面影堂のコヨミの部屋に泊まっていた。ファントムから身を隠すにはそれが一番で、また何かあっても同じフロアにいる晴人がすぐに駆け付ける事が出来るからだった。

「あんまり広い部屋じゃなくてごめんね」

 りかのための布団を敷きながらコヨミが言う。

「ううん、なんだか隠れ家みたいで、ドキドキする」

 アンティークショップの二階の居室だからか、部屋の家具は全てお洒落な年代物が誂えられており、古いランプや壁に飾られた絵画が印象的だった。そう言えば日中のコヨミの服装も何処か古い西洋人形を思わせた。

「本当に、今のりかちゃんに取っては隠れ家だけどね」

 コヨミが微笑みながら言い、りかも笑った。自分の運命を自分で笑っているようでもあった。部屋の電気を消したコヨミはベッドに入り、りかも布団で横になった。窓から入って来た月の光が二人の間を柔らかく照らす。掛け時計の針の音が静けさの中で際立ち、窓の外を十二月の風が通り抜けた。

 暫しの沈黙の後、コヨミが「りかちゃん、もう寝た?」と小さく声を掛けた。

 国道を走る車の音が遠くに聴こえる。

「ううん、まだ」

 りかは布団の中から応える。

「晴人から聴いた。クリスマスイヴに、大きなコンサートがあるんでしょ?」

「そう。きっと良いコンサートにしてみせるから、コヨミちゃんも、晴人さんも絶対に見に来てね」

「うん、行くわ。楽しみにしてる」

 お互い横になったまま静かに言葉を交わした。りかからはコヨミの表情は伺い知れないが、ゆっくりとして落ち着いた、優しい声だった。

 りかは躊躇いがちに呟く。

「だから、そのためにも・・・」

「・・・ファントム?」

「うん。あんな化け物に、早くいなくなってもらわないと」

「大丈夫。晴人が絶対にあなたを守るわ」

「うん・・・」

 コヨミの口ぶりを、どこか信じきれない自分がいる事にりかは気付いた。いや、信じきれないというよりは、一方的に守られている状況に寧ろ居所の悪さを感じたのかもしれない。

「コヨミさん、あたし、ゲートなんだよね」

「ええ、そうよ」

「ゲートって、人より魔力が、有るんだよね。それって、晴人さんみたいに魔法が使えるって事?あたしでも、ファントムを倒せるって事?」

「・・・残念だけど違うわ。魔法使いになるには大変な資格が必要なの。ゲートはただ、他の人と比べて少し魔力が高いっていうだけ。普通に暮らしてる分には、他の人と変わりは無いわ」

 コヨミの返答をりかは押し黙る。

「ねえ、りかちゃん」

「なに?」

「家族にはこの事内緒にしてるみたいけど、グループのメンバーには伝えたの?」

 コヨミの問いに、りかは寝返りを打ってベッドから背を向けた。レッスン場ではしゃぐメンバーの姿が思い出される。

「メンバーには、何も言ってない」

「言わなくていいの?」

「言えないよ、こんな事」

「どうして?」

「だって・・・」

 冷たい風が古い窓枠を揺らす。

「あたしね、リーダーって訳じゃないんだけど、グループの最年長だし、絶対に迷惑はかけられないの」

 コヨミが小さく頷く。

「本番までもう時間も無いし、打ち合わせやリハーサルだってもう佳境だから、あたし一人の問題にメンバーを巻き込みたく無いから」

 りかの口調が少しだけ強くなる。

「そう・・・。でも、本当にそれは」

 コヨミはそこで言い淀み、また続けた。

「本当にそれは、りかちゃん一人の問題なの?」

 りかは暫し考えた。しかし布団を耳元まで被り、聴こえない振りをした。

 

 

5.

 

 携帯の画面が光った。まだ寝付けていなかったりかが画面を覗き込むと、藤井から着信が来ていた。時刻は午後十時。こんな時間に藤井やスタッフから電話が来る事は緊急の用があった時だけだった。寝息を立てているコヨミを起こさないようにりかはその電話に出る。面影堂の電波環境のせいか、雑音が混じって藤井の声が少し聴き取りにくい。

「真山か、遅くに悪い。ちょっとコンサートの事で今直ぐ話したい事がある。今、魔法使いの所か?事務所に来れるか、出来れば一人で」

 りかはコヨミの方をもう一度見る。寝返りを打った彼女はまたすぐに寝息を立て始めた。

「うん解った、すぐに行く」

 りかは静かに布団を出て、着替えを済ませると簡単な荷物だけを持ってコヨミの部屋を出た。

 

 事務所の前に着くと、玄関に青い制服を着た警備員が立っていた。

「真山さん、お疲れ様です。会議室で藤井さんがお待ちです」

 警備員はりかに一礼すると、人気の無い事務所の中に入って行った。りかもそれに続く。事務所に呼び出されて、スタッフではなく警備員が待っているのは珍しい事だった。藤井は何か手が離せない作業でもしているのだろうか、だとしたらきっとコンサートについて重要なハプニングがあったに違いない。それも最年長の自分一人が呼ばれるという事は、メンバー全員には直ぐに伝えにくい内容のはずだ。警備員の後に続きながらりかは気が急いた。

「こちらです」

 警備員が扉を開けたのは、自分達がずっと借りているあの会議室だった。室内は照明がつけられておらず、降ろされたブラインドから漏れる月の光に事務机や機材、そして未完成のオーナメントがぼんやりと浮かび上がっていた。

 しかしその中に藤井の姿は無い。

「あれ?藤井さんは、今いないんですか?」

 りかは部屋の中に進み周囲を見渡す。様々な荷物が犇めく中、人影は見た所一つも無い。

 背後で警備員が扉を閉めた。続いて金属がぶつかり合う重い音が聴こえる。扉の鍵が締められた音だ。

「え?」

 思わず振り返る。薄暗い闇の中で、ここまで自分を案内した警備員がドアノブに手をかけたままこちらを見つめていた。次第に、その顔にいやらしい笑みが現れる。口元から下卑た笑い声が漏れ出す。

「申し訳ないが、あの藤井とかいう男には少し眠ってもらったよ。ほら、そこだ」

 警備員が会議室の隅を指差す。その方向に咄嗟に視線を移すと、衣装のかけられたパイプハンガーの影に、藤井の身体が横たわっているのが見えた。

「藤井さん!」

 りかは思わず駆け寄る。

「心配するな、その男はゲートではない。我々ファントムは、ゲートではない人間を殺す事は禁忌とされている」

 藤井の身体に触れると、確かに息はしているようだった。しかし幾ら声をかけても身体を揺すっても藤井が眼を覚ます気配はない。

「・・・ゲートはお前だ、真山りか。そしてお前の心の拠り所は、とうに理解させてもらったぞ」

 警備員の声が歪み始める。藤井から眼を移し振り返ると、警備員の身体が奇妙な色をした霧のようなものに包まれているのが解った。霧の中で徐々に制服のシルエットが消え、それまで人間の顔をしていたものがグロテスクに変容を始めた。

「嘘・・・」

 霧が消えると、眼の前にはあの夜にりかを襲った三つ眼の青黒い化け物が立っていた。

「さあ、今日こそ絶望してもらおう。そして新たなファントムを生み出せ」

 化け物が濁った三つの眼を不気味に輝かせながら、ゆっくりとりかの方に歩を進めた。りかは恐怖に怯え、ひたすらに藤井の身体を揺すった。しかし幾ら名前を呼んでも藤井は起きない。りかは先ほど藤井から来た電話を思い出した。雑音のせいで解らなかったが、あれは藤井の声では無かったのだ。あの声は晴人の事を、その名前ではなく魔法使いと呼んだ。そこで気が付くべきだったのだ。りかは自分の迂闊さを悔やんだ。

 私はファントムにまんまと騙され、たった一人でここに来てしまったのだ。

「そいつには眠ってもらっていると言っただろう」

 りかのすぐ背後でファントムの声が低く響き、振り向くと眼の前に化け物の恐ろしい顔があった。気色の悪い吐息がりかの顔にかかる。りかは思わず身体を強ばらせ眼をつむった。途端、重たい衝撃が首元に起こり、身体が床から離れ、そして落ちた。机や荷物が崩れる音が続く。ファントムが腕でりかを弾き飛ばしたのだ。

 経験した事の無い痛みが右の肩から顎の辺りまでを深くいたぶる。足も痛めているようだ。りかは咄嗟にその痛みの後遺症について思った。どうか浅い怪我で有って欲しい。このせいで踊れなくなるなんて事は絶対に起こらないでほしい。明日もまた長時間のリハーサルがある、本番まで時間が無い。コンサートで自分だけが欠場するなんて事はあってはならない。スタッフに、そしてメンバーに、迷惑をかける訳はいかない。何より集まってくれる四千人のファンを悲しませる事は絶対にしたくない。

 朦朧とする意識の中でそこまで考えて、しかし今はそれよりも自分の命がひたすらに脅かされている事に気付く。ファントムの重い足音が迫る。

 しかし眼の前まで迫った三つ眼の化け物は、りかが床に這いつくばり呻いてる様を眺めると、踵を返して事務机の方へ歩き始めた。

「そこで見ているがいい。お前の希望が、消える瞬間だ」

 まさか、とりかは思った。ファントムが近付いて行く机を見る。そこにはあのオーナメントが置かれていた。メンバーの想いが託された、そして未だりかが言葉を彫りつけられていないせいで未完成のままの、クリスマスイヴコンサートの象徴が。

「嘘、やめて」

 痛みで微かな声しか出ない。ファントムはりかの声に耳を傾ける事なく、オーナメントに迫って行く。その右手に奇怪な光が現れ、やがて剣の姿に変わった。あの夜にりかを斬り付けようとした、あの異様な形の剣だ。

「やめて、お願い、それだけは」

 口を動かす度に走る鈍痛に耐えながらりかは叫ぶ。震える身体を腕の力だけで引きずろうとする。どうしてもあのファントムを止めなければいけない。あのオーナメントだけは、あれだけは、絶対に失いたく無い。

 りかが血走った眼を向ける中で化け物は右手を高く挙げ、無惨にも剣を振り下ろした。木片が割れる音が会議室に響く。ファントムの力のせいなのか、怪しい色の光がそこ現れて火花が散った。事務机が裂け、赤く塗られたオーナメントのピースが粉々になって周囲に弾け飛んだ。

 りかの希望が、目の前で打ち砕かれた。

 心臓が一度、その身体を揺るがす程に不気味に鼓動を打った。

「さあ、お前の希望は潰えた。絶望の中で新たなファントムを生み出すがいい」

 化け物の高笑い。飛び散ったオーナメントの破片。私のせいで完成が遅れ、私のせいで無くなってしまった、皆の象徴。

 自分の鼓動が耳元で聴こえる。鼓膜を石で叩くようだ。息がしにくい。会議室の風景が一層暗くなる。首元の激痛が転移したように全身を襲い始める。声が出ない。怖い。恐ろしい。巨大な不安がやって来る。

 手を見ると紫色に不気味に光る線が走っている。それが枝分かれするようにどんどん広がって行き、自分の身体がひび割れて行くのが解る。目の前にオーナメントの破片が転がっている。家族、と彫られたピースのその破片。りかはそれに手を伸ばす。ひびが大きくなっていく。

 瞬間、破片から火花が散り炎に包まれた。りかの暗い視界の中で、希望が真っ黒い灰になっていく。自分の鼓動が耳元で轟く。息が詰まり、声が出ない。自分の身の内から、強大な悪意が溢れ出て来るのを感じる。身体が強ばる。絶望が身体を押しつぶそうとする。もう自分は自分に戻れない。呼吸が、出来ない。

 くぐもって聴き取りにくい鼓膜が、いつか聴いた激発音を知覚する。会議室の扉が荒々しく開けられる音がする。化け物のそれではない、人間の声が響く。

「りかちゃん!」

 晴人の声。りかは焼け焦げて小さくなっていくオーナメントをただ見つめながらそれをなんとか理解する。

「どうして抜け出したりしたんだ!」

 晴人が怒声を上げる。ファントムがまた高笑いをする。

「指輪の魔法使い、今回ばかりは遅かったな。ゲートの希望は既に灰となった」

 りかを襲う絶望のひびは徐々に全身を覆い始める。そのひびの向こうに、失われたものが透けて見えるような気がした。オーナメントは壊された。コンサートのステージにはもう使えない。夢見ていた、大きな舞台。メンバーがそれに託した想いが灰になってしまった。まだ言葉を彫りつけられていなかったオーナメント。言葉にならず、宙ぶらりんのまま行き場を失ってしまった、大切な想い。二度と戻らない、その希望。

 りかの視界の隅で、晴人が左手の指に指輪を嵌めるのが解った。

「りかちゃん、絶望しちゃ駄目だ。君の希望は、絶対に俺が取り戻す」

 赤い魔法陣が晴人の身体を包んだ。燃え滾る炎のような光を発しながら、晴人があの夜に見た、仮面の魔法使いの姿に変身した。

 疾駆する音、銃声、打撃音、金属と金属が強烈にぶつかり合う音。晴人がウィザードとなってファントムと戦っている事を、徐々に失われ始めたりかの五感が微かに捉えていた。

「邪魔をするな、新たなファントムが生まれるのを指をくわえて見ていろ!」

 ファントムが叫ぶ。晴人は剣の形にした銃を振るい、化け物の身体を斬り付けていく。

「悪いがそういう訳には行かない。俺はゲートの最後の希望だ」

 晴人が指輪をベルトに翳す。ファントムの前に壁のような物が現れ、それに衝突したファントムが大きく体勢を崩す。新たな指輪の光が起こり、会議室の床から鎖が現れ化け物の身体を縛り付けた。

「同じ手は食わないぞ魔法使い!」

「それはこっちも同じさ」

 ファントムがまた液状化を始める。晴人は瞬時に指輪を嵌め替え、青白い光が会議室を満たした。魔法使いの手から吹雪のような突風が起こり、溶け出したファントムの身体を凍らせた。氷が軋む音と共に化け物の呻き声が上がる。

「時間が無いんだ。さっさと決めさせてもらうぞ」

 晴人がまた指輪を嵌め替え、そして一際強い、光る業火が現れた。地響きが鳴る。炎に包まれた晴人の身体が高く跳ね上がり、そして飛び蹴りの体勢でファントムの身体を貫いた。魔法陣を纏った赤い光が絶叫する化け物を包み込み、直後に激しい爆発と共に三つ眼のファントムは煙の中に消滅した。

 晴人がりかの元に駆け寄る。

「・・・晴人さん」

 微かながらりかは声を発する事が出来た。全身を突き刺すような痛みに耐えながら目線を上げると、宝石の仮面を被った魔法使いがすぐ傍に膝をついていた。

「晴人さん、本当にごめんね・・・、あたし、もう、ダメだ・・・」

 晴人はじっとりかを見つめ、首を横に振る。

「誰にも迷惑をかけたくないって思ってたのに、これで、全部おしまいだよ」

 りかを真っすぐに見つめながら、晴人が一つの指輪を取り出す。

「大丈夫だ、りかちゃん。言っただろ、俺は希望を守る魔法使いだ」

 晴人がその指輪を、ひび割れたりかの中指に嵌めた。晴人の仮面と似たデザインが施された橙色の指輪だった。

「約束する。俺が絶対に、君を救い出してみせる」

 指輪を嵌めたりかの手を、晴人がそっとベルトのバックルに引き寄せた。

 指輪が暖かい光を放った。りかの意識が柔らかく薄れ始めた。それは恐怖でも不安でも絶望でもない、安らぎに満ちた気絶だった。りかはその時に思った。私は大丈夫かもしれない。指輪の魔法使いが、晴人が、自分を絶望の縁から救ってくれる。

 その指輪の光は、優しく、静かに、しかし確かに、りかにそう信じさせた。りかは深い安寧に包まれながら、会議室の床に身体を横たわらせ、瞼を閉じた。

 

 

6.

 

 自分の名前を呼ぶ声が聴こえた。その声は強く、何度も何度もりかを呼んでいる。メンバーが自分を呼ぶ時の、真山、という声だ。特に徒名らしい徒名が無いりかの事を、メンバーは親し気に「真山」と名字で呼ぶ。

 続いて、自分に語りかける楽し気な声が聴こえる。

 

 ほら、これ見て、真山!可愛いでしょ!

 真山、一緒にあそぼ

 笑い過ぎだよ真山!

 ねえ真山なに言ってるのぉ

 

 全て聞き慣れたメンバーの声だ。一人一人、誰が発したものかが手に取るように解る。最初は美怜。新しいスマートフォンのカバーを見せびらかしているらしい。次はひなた。また子供みたいな遊びを始めたに違いない。次になつ。自分がおかしな所で笑いを引きずるといつもこうしてツッコまれる。そしてあいか。あいかはりかの発言の間違いや的外れさにいつも厳しい。

 

 真山のそういうとこ、嫌いじゃないよ

 食べないなら、真山の分もらっていい?

 今日は何話そうかー真山

 真山大丈夫?一人で抱え込んだりしてない?

 

 続いて裕乃の声。皆が大騒ぎした後に冷静な一言をくれる。莉奈の声。あんなにスタイルが良いのに食いしん坊。彩花のおっとりした声。帰りの電車が一緒になった時は二人で色々な事を話す。そして、瑞季の声。グループ結成の時からずっと一緒に頑張って来た、いつも自分を心配してくれる、優しい声。

 八人全員の声だった。その声が繰り返しいつまでも、自分に声をかけてくれる。その暖かい声の渦の中に、りかも自分の声を投じる。会話としては成り立っていないかもしれない小さな返答を、一つだけ投げかける。

 

 「ありがとう」

  

 気が付くとりかはベッドの中にいた。そしてそのベッドの周りを、メンバーが囲んでいる。どうやら事務所の仮眠室らしかった。

「真山!」

「眼覚ましたよ!」

「大丈夫?痛いところとか無い?」

「良かった、本当に良かった!」

「解る?みんないるよ?」

 メンバーが口々にりかに声をかける。美怜。ひなた。なつ。あいか。裕乃。莉奈。彩花。瑞季。メンバー全員がそこにいた。それぞれ、心配そうに、嬉しそうに、微笑みながら、半ば呆れたように、涙しながら、りかの事を見つめていた。

「本当に心配したんだからね!」

 ひなたが眼に涙を浮かべながら叫ぶ。

「良かった、眼を覚ましてくれて・・・」

 美怜がしゃがみ込みながら呟く。

「大変な目に遭ってたのに、どうして言ってくれなかったの?」

 なつが真剣な表情で問う。

 メンバーが口々にりかに語りかける。りかはその顔をゆっくり見渡していく。

「ごめんね、どうしても、皆に迷惑かけたくなくて・・・」

 りかがそう呟くと、メンバーの間から藤井が顔を出した。

「気が付いたか、真山」

「藤井さん!」

 りかは思わず身体を起こした。

「藤井さんこそ、無事だったんですね、良かった・・・」

「ああ。彼が助けてくれたよ。な、そうだろ、晴人君」

 藤井が部屋の隅に声をかけた。メンバーの間から、晴人と、そしてコヨミが姿を現した。

「晴人さん・・・」

「気分はどう?」

 晴人が笑みを浮かべる。

「うん、大丈夫みたい」

「それは良かった。りかちゃんはもう、ゲートじゃ無くなった。君を襲ったファントムも、君の中で生まれようとしていた新たなファントムも、俺が倒したから」

 晴人が最後にりかに嵌めた指輪は、晴人がゲートの精神世界に入り込むための指輪だったのだと言う。りかが絶望を覚え、破壊された精神世界から生まれ出ようとしていたファントムを、晴人は消し去ってくれたのだった。

「だから君はもう二度と、ファントムに襲われる事は無い」

 晴人の説明にりかは深い安堵を覚えた。と同時に、あの壊されてしまったオーナメントの事が思い出された。りかはメンバーの方に向き直る。

「みんな、ごめん、イヴのオーナメント、あたしのせいで壊されちゃった・・・」

 あのハートのオーナメントはクリスマスイヴコンサートの象徴であり、メンバー皆の想いが詰まった物だった。それを壊されてしまった事を、メンバーは皆深く悲しむだろうと思ったし、自分がゲートであったばかりに、皆に辛い思いをさせてしまったとりかは思った。

 しかしメンバーは皆、オーナメントが無くなった事を悔やむ素振りを全く見せなかった。

「壊れちゃった物は、仕方ないよ」

 あいかが言う。

「スタッフさんは慌てるかもしれないけど、また、作ろうよ、九人でさ」

 莉奈が言う。

「皆で徹夜しようよ!」

 彩花が言う。

「私も実は、やり直したい所あったし」

 笑いながら裕乃が言う。

 りかは込み上げて来る涙を抑える事が出来なかった。迷惑をかけたく無い、問題に巻き込みたく無いと思っていたメンバーの前で、りかは両手で顔を覆い、嗚咽を上げて泣いた。自分が如何に一人で抱え込みすぎていたか、そのせいでメンバーと一体になれていなかったかを痛感した。

 私の希望は、心の拠り所は、あの不器用なオーナメントだった訳じゃない。ずっとずっと傍にいたメンバーがこそ、本当の希望だったのだ。なんて私は馬鹿だったのだろう。

 そっと、りかの両の肩に掌が置かれた。その両手が背中の方に回り、涙を流し続けるりかの身体を強く抱き締めた。暖かかった。その温もりに、りかは不思議なくらいに安心した。

「一緒に、九人全員で、絶対良いコンサートにしようね」

 瑞季の声だった。すぐ耳元で聴こえた。

 これまでもずっと、りかの傍にいてくれた声だった。自分の悩みや本心を、いつも聴いてくれていた筈の声だった。

 瑞季が続ける。

「それで終わりじゃないよ?皆で一緒に、これからも夢に向かって頑張っていこうね」

 りかは何も言えず、泣きながら、ただただ強く頷いた。瑞季の腕の中で一心に頭を縦に振った。

 瑞季の身体が離れ、りかがそっと目を上げると、メンバーの誰よりも涙を流している彼女の顔がそこにあった。

「これからは・・・隠し事、無しだよ?」

 そう言って瑞季は笑った。りかもなんとかそれに笑い返す。

「うん。ごめんね。・・・ありがとう」

 りかは瑞季の身体を強く抱き締め、瑞季もりかを強く抱き締め、二人は一際大きい声を上げて泣いた。

 

 藤井が部屋の隅に晴人とコヨミを促した。

「晴人君、りかを助けてくれて、本当にありがとう」

 藤井が晴人に深く頭を下げた。

「礼には及ばないよ。これが俺の、魔法使いとしての使命だから」

「メンバーを呼んでくれたのは・・・」

「私よ。晴人がそうしろって言ってくれたの。いつでもりかちゃんの所に集まれるようになって。事情を説明して」

 コヨミが応える。

「そうか・・・。じゃあ晴人君は、真山の希望が、本当はあのオーナメントじゃないと解っていたのか?」

 藤井の問いに晴人は首を振る。

「いや、ファントムに襲われた時点では、確かにりかちゃんの希望はあのオーナメントにあった。だけど暫く彼女の傍にいて、気付いたんだ。彼女の希望の、オーナメントではなく、本当に有るべき所に」

「それが・・・、メンバーか」

「ああ。勿論オーナメントを守れれば一番良かったのかもしれないが、俺が出遅れたばっかりに、オーナメントはファントムに壊されてしまった。しかし、メンバーの存在があれば、きっとりかちゃんの希望をつなぎ止める事が出来ると俺は信じた。だからコヨミに頼んで、こんな夜中に皆に集まってもらったんだ」

「そうだったのか・・・。本当にありがとう、晴人君。りかもきっと、これで立ち直る事が出来るだろう。それどころか、もっとメンバーとの絆を深められたはずだ」

 晴人が頷く。

「二十四日のコンサートは、必ず開催する。素晴らしい物にしてみせる。だから、楽しみにしててくれ」

 藤井が笑って言った。その笑顔を見ながら、晴人も笑って応える。

「ちゃんと俺とコヨミのチケット二枚、忘れずに確保しといてくれよな?」

 晴人がベッドの方を見ると、先ほどまで泣いていたりかが、メンバーと騒がしく談笑している様が見えた。それは本当に心を通わせている仲間と時間を共にする事が出来ている、輝かしい希望に溢れた笑顔だった。

 

 そっと仮眠室を出て、晴人とコヨミは面影堂への帰路を歩いた。

「良かったわね、あんなに素敵なメンバーがいてくれて」

「ああ。あの子は幸せだ。りかちゃんの精神世界に入った時、そこは彼女達メンバーの笑顔で溢れていたよ」

「晴人が魔法で助けようとする前から、本当の希望は、あそこにあったんだ」

 コヨミの言葉に晴人は深く頷く。

「今だって魔法を使えば、あのオーナメントも復元出来たかもしれない。だけどもうその必要は無い。俺はゲートの希望を守る魔法使いだ。だけどゲートの心を救うためには、必ずしも魔法だけが有効な訳じゃないさ」

 

 

7.

 

 広い客席に色とりどりのサイリウムの光が広がっている。ファンの声援が波のようにステージに押し寄せる。それが、ステージで歌い踊るりか達の励みに繋がる。クリスマスイヴの講談ホールは熱気と興奮に包まれていた。

 りかはほんの少しだけ残っていた身体の痛みも忘れ、一心不乱に歌い踊り、ファンに笑顔を振りまいた。するとファンも心から嬉しそうな表情をこちらに向けてくれる。りかは、やはり自分はアイドルを続けていて、この瞬間が一番好きなのだと改めて感じた。目の前にはたくさんのファンが、すぐ傍には信頼出来る仲間達が、ステージ袖には自分達を支えてくれるスタッフがいる。この場所に今いられる事の、例え様の無い幸福。

 踊りながらフォーメーションを変えていく中で、りかは瑞季と目が合った。瑞季はりかに向かって優しく微笑む。りかもそれに笑い返し、今度はその笑顔を客席に向けた。

 二階の関係者席の隅に、晴人とコヨミの姿があった。二人ともとても楽しそうな表情で自分たちのステージを見守ってくれていた。りかは二人の方に向けて、踊りの中で上手く手を振ってみせる。それに気付いてくれたのか、晴人は歯を見せて笑い、コヨミが優しく手を振り返してくれた。二人がいなかったら、今頃私はどうなっていたのだろうか。命を救ってくれた以上の感謝を、りかは感じていた。自分の希望が本当に宿るべき場所。大切なメンバー。これからも一緒に頑張って行く事を誓い合える、かけがえのない仲間。二人はそれを思い出させてくれた。

 そしてりかは再び客席のファン達を見つめる。

 一度は壊れかけたこのクリスマスイヴコンサートから、新たなスタートを切るのだ。私が、いや私達が、ファンに取ってかけがえのない、希望となるために。

 急ごしらえのため些か簡素になってしまったオーナメントがステージの上方で輝いていた。ハート型の一つを形作っているりかのピースには、一際大きく、「希望」と彫られていた。

 

 

 

 

 

 

【短編】志村坂下児童館のヴェートーヴェン

 

 志村坂下児童館のヴェートーヴェン

 

 ホールの片隅で普段はどっしりと黙り込んでいてたまにヘタクソなネコフンジャッタとか意味の無い滅茶苦茶な騒音しか鳴らされない古いアップライトピアノが第二木曜日と第四木曜日だけはルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンを歌う。馬鹿丸出しの島村とかが「ベートーベン弾いてベートーベン!」とか馬鹿丸出しで騒ぐから僕はそれが嫌で島村は友達でいつも一緒に遊んでいるけど僕も同じ様に馬鹿を丸出しにしてしまうガキだと思われたく無くてある日のパソコンの授業中にこっそりと「ベートーベン」でググッて、その作曲家が正しくはルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンという名前で水木さんが弾いてくれるあの何て言うか物悲しい感じの曲も『エリーゼのために』という名前だと突き止める。突き止めたのは良いけれど曲名をちゃんと確かめようと思ってYouTubeにアクセスしてしまい、スピーカーからピアノの音がボロンボロン流れて谷岡先生に課題をサボっているのを見つかってしまったのは痛かった(頭叩かれたし)。

 しかしそのおかげで僕は水木さんが弾いている曲の名前もそれを作った人の名前も知る事が出来て、馬鹿丸出しの島村に向かって「ルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンな。ベ、じゃなくてヴェ、なんだよ」と賢さ丸出しで言ってやる事が出来るようになった。「健ちゃんくわしーなー」と言う島村に向かって僕は「ドイツの、ロマン派の、作曲家だよ。でも凄いんだぜ、ナンチョーだったんぜ?」と立て続けに捲し立てる。するとピアノの前に座っていた水木さんが「ケンジくん詳しいんだねえ、音楽好きなんだ」と言ってくれる。僕は変わらない賢さ丸出しでそれに答えたいのだけれど、水木さんの笑顔を見ると頭の中が真っ赤っ赤になって顎が震えて脚が固まってどうしようもなくなって、その上自分の賢さなんて急ごしらえの底の浅い物だという事実に自分で怖くなって「はっ、はい。え、まあ、す、好き、かも?かな?」とか急にたどたどしさ丸出しになってしまう。音楽なんてテレ東の宇宙戦争のやつと兄ちゃんが聴いてるウルサいバンドのやつと水木さんの『エリーゼのために』しか知らない。

 ああ水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さん水木さんと僕は毎晩のように布団の中で二つ目の枕を抱き締めながら(一つ目は頭の下にちゃんと敷いてある)唱えて悶える。唱えれば唱えるほど水木さんが傍にいてくれているような気がする。あの柔らかい優しい可愛い美しい最高の笑顔が僕の腕の中にあるような気がしてくる。あるような気がしてくる?いやいやいやいやそれってどういう事だよオレが水木さんを抱き締めてるって事?布団の中で?なにそれどういう状況だよそれってあれなんじゃないのオトナがするやつなんじゃねーの?それダメじゃね?それじゃオレただの変態じゃね?こんなの絶対考えちゃダメじゃね!?と僕は急に恥ずかしくなってギューギュー抱き締めていた二つ目の枕を布団の外に投げ捨てて一旦落ち着こうとする・・・という事を毎晩のようにやっている。ああ水木さん水木さん。名字しか知らないけれど、こんなやつがあなたの事を好きでごめんなさい、大丈夫です僕は清い男子です変な事はなんにも考えてません大丈夫ですあなたは高校生で僕は未だ小6で年の差はあるけどもうすぐ中学に上がるし高校と中学なら段階ひとつしか変わらないしそれに僕は島村ほど馬鹿じゃないしちゃんと考えられるしでも純粋丸出しの男で・・・と誰に言い聞かせてるんだから解らない事を考えているうちにいつの間にか僕は寝ていて、夢の中に児童館のピアノが出て来てそれを弾いている水木さんの手が出て来てごくごくたまに水木さんの笑顔が出て来てだけど島村が急に間に立って「ベートーベンでしょ!」と叫んだりしてムカッとした所で気付いたら朝になっている。という事をやっている。 ああ初恋です。

 頭の中が真っ赤っ赤の僕はだけれどとんでもない勘違いをしていた事に気付かされる。

 水木さんが来ない週のある平日にいつものように志村坂下児童館のプレイルームで魚雷戦ゲームで遊んでいた時、対戦相手だった五十嵐に「そういえばさ、水木さんって、下の名前なんて言うんだろね」と言った。物凄く自然な感じを装っていたけど、正直ドッキドキだった。この一言で僕が水木さんに惚れてる事がバレると思ったし、だからこそ馬鹿の島村がいない時に信用出来る誰かに訊きたいと思ったし、好きな人の下の名前を知らないという事が僕の中で丸出しになってしまう瞬間もまあ五十嵐の前でなら耐えられるかなと思った。五十嵐は僕より頭も良いし性格も良いし格好は良く無い。

 鉄球を砲台にセットしながら五十嵐が「ん、どういう事?水木さんは水木さんじゃん。あの、たまにお手伝いに来る高校生でしょ?」と言う。

「うん、第二木曜と第四木曜の。だから、水木さんの下の名前、オレら、知らないよね」

 そう返しながら、どの日に水木さんがここに来るかを僕がしっかり把握している事実がバレてしまった事に気付き背中が冷える。しかし五十嵐はそんな事は気にせずにまたすかさず返す。

「だから、水木さんじゃん」

「は?そうじゃなくて、名字じゃなくてさ、下の・・・」とそこまで言って僕は今度は耳の後ろが冷えて震える。瞼が固まる。頭の中が真っ青っ青になる。

「だからー、下の名前がミズキでしょ。」

 五十嵐が放った鉄球が僕の三つ並んだ内の真ん中の艦を一発で海に沈める。カタコと軽い音がして船はプラスチック製の海底に落ちて、役割を果たした鉄球がゴトツと受け皿に落ちる。

「えっ、あっ、じゃじゃじゃじゃあ、みょ、名字は?」

「それは知らないよ。ここの人もみんな名前で読んでるし。つーか早く撃てって、健ちゃんのターンじゃん」と五十嵐が指先で鉄球を捏ねるように弄びながら言う。

  なんてこった。

 僕は意識が朦朧とするのを感じながら鉄球を手に取って砲台にセットしてスコープを覗き込んで五十嵐のどの艦を墜としてやろうかと考えながらなんてこったなんてこったなんてこったとずっと頭の中で繰り返していた。

 どうしよう。ずっと名字だと思ってたのは下の名前だったんだ、あの人は水木なんとかっていう人じゃなかったんだ、ちくしょーコレぜってー兄ちゃんのせいだよアイツ古い漫画ばっか集めてて水木しげるの漫画が面白いとか言ってオレに水木さんの鬼太郎が水木さんの悪魔くんがとかやたらオレに言って来るからだ、どうしようどうしようオレはあの人の名前を勘違いしてたんだ好きな人の名前を勘違いしてたんだずっと布団の中で下の名前を唱えてたんだそんなやらしい事してたんだ!!どうしようごめんなさいごめんなさい僕は間違ってましたすいませんワザとじゃないんです勘違いだったんです嫌わないでください僕は清さ丸出しでエロい事なんか全くなんにも考えてないピュアな12歳で・・・と頭の中で思考にとぐろを巻かせている内に放った鉄球がゴロゴロゴロゴロと鳴って五十嵐の艦が続けて二隻墜ちる。

「おい二発撃ってんじゃねーよ!もうやめよーぜ、やっぱコレつまんねえよ。なんでお前こんなん好きなんだよ」

 五十嵐が立ち上がって魚雷戦ゲームを棚に片付けだす。僕は「うん、」としか言えない。ああ水木さん水木さん、いや違う、ミズキさんミズキさん・・・。水木なんとかさんじゃなくて、なんとかミズキさんなんだ。なんとかミズキさん。ああなんとかミズキさん。

 ん、そういえば漢字はどう書くんだろう?まさか水木とは書かないもんな。しかしこれ以上五十嵐にミズキさんについて訊くのはさすがに危ない。お前もしかして、なんて言われたら今の僕の発熱した脳みそでは絶対に上手く取り繕う事が出来ないだろう。

 その夜僕は布団の中でミズキさんと唱える事が躊躇われた。だって女の子を下の名前を呼ぶなんて、そんなはしたない事は出来ない。そういうのってもっと、何ていうか呼んでも良いっていう状況が出来てから呼ぶもののはずだ。二人の間で。わかんないけどそうなんだ。でも僕は耐えきれずに二つ目の枕をギューギューしながらミズキさん、と呟いてしまう。これまでとは全く響き方が違っていた。だってだって名前っていうのはその人だけが持ってるもので、名字っていうのはその人の家族がみんな共有してるもので、だから下の名前を呼ぶっていう事は、本当にその人の事だけを呼ぶ事になるわけで・・・と考えて僕は頭の中が急激に真っ赤っ赤になる。その夜は真っ赤っ赤な夢を見て真っ赤っ赤な朝焼けで目覚めた。

 ミズキって、漢字でどう書くんだろう?

 その日の放課後、僕は池袋のヤマハにいた。二階の楽譜売り場で『エリーゼのために』の楽譜が載っている一番値段の安かった本(「『エリーゼのために』からはじめる初めてのクラシックピアノ」780円税込み。)を買い、その次の第四木曜日に児童館に持って行った。エプロン姿で髪を後ろで一本に纏めたミズキさんがホールでフラフープやボールや輪投げの整理をしている。後から来た島村が「あっミズキさん来てんじゃん!ね、ヴェートーヴェン弾いてよ!」と騒ぐ。ベじゃなくてヴェが言えるようになってる。ミズキさんが「島村くん好きだねえ」と笑ってピアノに向かう。島村は馬鹿丸出しだけど本当に音楽が好きなのかもしれない。ミズキさんの結んだ髪が揺れながらピアノへ向かう。ミズキさんごめんなさい、僕はまだ音楽よりあなたが好きです。

  ミズキさんが椅子に腰を下ろしてピアノの蓋を開けてエンジ色の布を取り、左右五本ずつの指をそっと白い鍵盤の上に置く。その時にすっと背筋がまっすぐになる。そして一つ息を置いてから、音楽が始まる。月に二回しか歌えないピアノがその鬱屈を晴らすように弦を震わせる。音が児童館のホールを満たす。ミズキさんの指が鍵盤の上を踊って行く。手首が跳ねる。その度に鍵盤が踏まれて弦が叩かれて音が鳴って音楽が歌われる。僕も島村もホールにいた他のやつらもミズキさんの『エリーゼのために』に包まれる。僕はああミズキさんだと思う。変態っぽいけどミズキさんに包まれてると思う。だってミズキさんがここにいてミズキさんがこのピアノを弾かないとこの音はここに鳴らないのだし、ミズキさんが鍵盤を指でどんどん踏んでいくから歌になるのだし、ということはこのルートヴィヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンの『エリーゼのために』はミズキさんそのものなのだ。志村坂下児童館の西日が差し込むホールをミズキさんが満たして、頭の中が真っ赤というか真っ桃色になってる僕をミズキさんが包んでいるのだ。やっぱり本当に幸せだった。

 演奏が終わって島村が「やっぱいーなー!」とか叫びながらホールを走り始めて、僕は脇に置いていたあのヤマハで買った楽譜を取って来る。頭の中を一気に真っ赤っ赤に燃やしながらそれをミズキさんに差し出して、「あの、サイン、ください!ミズキって、書いて、下さい!」と意を決して言ってみる。ちゃんと油性ペンも用意している。

「えっ、えー?」

 ミズキさんが驚いたような顔で笑う。

「なんでサイン?私べつに、ベートーベンじゃないよ?」

 笑いながらミズキさんが言う。ありゃ、ヴェじゃなくてベだ。

「で、でもいいんです、す、好きなんで」

 と言って僕は全身が真っ赤っ赤になった心地になる。あっ言ってしまった!と思う。けれどミズキさんが「うん、いいよねー、エリーゼ。私もこの曲好き」と言いながら楽譜とペンを手に取ってくれたので一先ず安心する。ミズキさんは「なんか自分が作曲者でもないのにサインなんてヘンな感じ」と微笑みながら表紙の裏に名前を書いてくれた。そして「はい!」と手渡してくれる。僕は「ありがとうございます!」と言いながらそれを受け取り、だけどすぐにそのサインを見る事は出来なかった。

 ミズキさんが職員室に戻ってから、僕はプレイルームの隅でそっと「『エリーゼのために』からはじめる初めてのクラシックピアノ」の表紙を開いてみた。下の方に

 

 瑞季  ケンジくんへ

 

 と書いてあった。読めなかった。は、はた?じゅ?で、き?と思った。いや違う、これでミズキなんだ。これでミズキと読むんだ。これがミズキさんの名前なんだ。名字は結局解らなかったけど(フルネームでサインくださいなんて言えなかった)、どういう漢字で名前を書くか解った。瑞季。瑞季さん。僕はその奇麗な字を見つめながら「瑞季さん」と呟いてみる。心臓の鼓動が一回だけ急に大きく鳴って全身が震えるのが解った。

 瑞季さん。

 あの人は瑞季さん。難しい漢字だけど、瑞に季でミズキ。瑞季さん。ああ瑞季さん。僕はあなたが好きです。名字は未だ知らないけれど。

 でももう一つ問題が生まれてしまった。今度は僕の名前をどう漢字で書くか、知ってもわらなきゃいけない。

 

 その翌日から志村坂下児童館のホールには瑞季さんのいない日でも『エリーゼのために』が鳴るようになった。瑞季さんが弾くのとは全く違う、たどたどしくてただの騒音にしか聴こえないものだったけれど。家にピアノがあればこんなに必死になってる姿を島村とか五十嵐とかその他の知らないガキんちょ共に見せなくて済むのになと思う。もう絶対バレてる。でもそれでもいい、今はこの楽譜に書いてある音楽をこのピアノに歌わせられるようになりたい。何でかは解らない、でも瑞季さんのサインをもらった以上、この楽譜のことをしっかり愛さないといけないと思った。

 馬鹿丸出しの島村にからかわれる。「お前のヴェートーヴェン下手すぎるな!」とからかわれる。ウルサい。ああ家にピアノが欲しい、家でゆっくりとこの曲と向き合いたい、瑞季さんのサインを眺めながら。聴かせるわけじゃないけど次の木曜までにもっと上手く、その次の木曜までにはもっともっと上手くなりたい。そしていつか瑞季さんに僕の上手くなったエリーゼを、僕の音楽を聴いてもらいたい。あとパソコンも家に欲しい。谷岡先生に叩かれるのはもうこりごりだし。

 

 

 

 

【SS】五年ぶりの星名美怜

 

  

 五年ぶりの星名美怜

 

 空港に現れた美怜を見て、そうそうそういやコイツこんなでっかくてピンク色したキャリーケース持って行ってんやっちゃ。と想い出すより前に、おぇーコイツこんな美人やったか?と驚くより前に、先ずなんだよそのコート!と僕は思ってしまった。キャメル色のムートンコートで、襟や袖の辺りなんかにモっコモコしたファーが付いている。身体のラインを沿うように仕立てられている切替え部分にもそれを縁取るようにモっコモコが付いている。ムートンとかファーとか切替えなんて言葉も、大学生の姉が居間に放置していたファッション誌をなんとなく眺めている時に覚えたものだ。だから何よりもそのコートが、そしてそのコートを事も無げに着こなしている美怜の姿が、五年という時間の、僕が感じていた以上の途方も無い長さを僕に思い知らせた気がした。こいつ、昔はもっとシンプルなパーカーとか着てただろー。

「あーっ、ケンちゃん!」

 モっコモコの美怜がキャリーを引いていない方の手を思い切り振り上げながら叫んだ。お、おう。と僕はぎこちなく返しながら、美怜の笑顔のその懐かしさにちょっとグッと来てしまう。要するにそれは全然変わっていないのだった。

「ケンちゃん、やっぱり迎えに来てくれたんだねー」

「ほ、ほやで。久しぶりやんか美怜」

 久しぶりに本人にかける"美怜"という名前。妙に新鮮に感じる、というか、違和感がある、というか、なんというか、気恥ずかしい。 

「健二くん、久しぶり。ありがとうね来てくれて」

「あらぁ健二くん五年ぶりね、ハンサムになったわねぇ」

 と声をかけてくれるのは美怜の両親だ。僕はいえそんな、なんて最近覚え始めた謙遜の言葉を使いながら、これまた急に気恥ずかしくなる。美怜を迎えるためだけに僕は一人で空港まで来て、まるで親公認の恋人みたいだ。美怜とはそんな大それた関係じゃないし、これまでもそんな類いの話はした事が全然無いのに。

 五年ぶりの日本を懐かしむようにゆっくり歩く美怜の両親の後ろから、五年ぶりの再会に何だかぎこちなさを感じてしまう僕と美怜が連れ立って歩く。いやぎこちないと感じているのは僕だけかもしれない、美怜は終止笑顔でイギリスの思い出なんかを早口で僕にまくしたてている。やれ晴れの日が少ないとか、やれご飯はお店を選べばちゃんと美味しいとか、やれ学校ではコーラス部に入ってたくさん友達が出来て嬉しかったとかなんとか。そこまで聴いてあっ友達かと僕は思う。美怜は別に女子校に行っていたわけじゃないし、そのコーラス部が混声なのか女声だけなのかは未だ訊いてないけど、男子の友達だってたくさん出来たはずだ。きっとそれは、遠い国の、要するにイギリスの、目がブルーで、スタイリッシュで、クールでインテリジェンスで、キンパツで、イングリッシュでトークする、僕の知らないカッコいい男子だ。

 美怜、と僕は思わず声をかける。キャリーを引きながら話を遮られた美怜が「えっ?」と言う。しまった、まだこの子はイギリスのド田舎の、スウィンドンとかいう所の丘の話をしている途中だった。しかし遮った事を謝って話を戻してもらう事が僕は出来ない。

「美怜、おめぇ、五年もイギリスにいたやげ、こ、恋のひとつでも、したやろ?」

 恋のひとつでも、というおっさんみたいな言い回しを僕はすぐに後悔してしまう。まるでこの五年の間で、僕がすっかり老けてつまらない存在になってしまったみたいじゃないか。

 美怜は何も気にするそぶりなく、しかも変わらない笑顔をたたえたまま、

「ウフフ、なーいしょ」

 と返す。しかもその「なーいしょ」が妙にリズミカルで、それを言う時に美怜の身体が小躍りというかスキップするように跳ねた気がして、なんというか要するにそれは楽しそうで、僕は急激に背中が凍り付いて、しかもその時美怜の耳たぶに僕の見た事が無い、それはピアスなんだろうかイヤリングなんだろうか小さいハート型のアクセサリーが付いている事に気がついて、多分これはピアスだしもしそうだとしたら美怜はこれを付けるために耳に小さい穴を開けたんだ、そうじゃなきゃピアスは付けられないしイギリスでそれをしたんだ、と思う。改めて僕は僕の知らない美怜の五年間を突きつけられた気になった。

「なんや、言えや、キンパツの彼氏、出来たんか。出来たんやろ、五年もいたら、出来ておかしないもんな」

 そう言う僕の声はもう自分でも嫌になって今直ぐ空港の窓をぶち破っていなくなりたいと思うくらいに震えていた、いやきっと震えていた、と思う。僕は自分でも恥ずかしいくらい動揺している、未だ美怜のイギリスでの恋愛事情なんて何も聴いていないのに。

 僕の恐らく震えていた声を聴いて、美怜はウフフフ、というやっぱり懐かしい笑い方をする。

 あ、美怜だ。

 と僕は改めて思う。ムートンコートやハート型のピアスやそして今気付いたヒールが高くて金色の小さいリボンが付いた靴なんかに包まれていながらも、やっぱりこの子は僕の好きな星名美怜なんだと思った。

「もー、」と美怜が前髪を振って元の整列状態に戻すような仕草をしながら言う。

「できてないよ、そんなの」

 転校してきた時から変わらない標準語で放たれたその言葉を聴いて、僕の心は一気に晴れたような気がした。僕の中のイギリスの曇天が晴れて、日本のそれと変わらない美しく澄んだ陽光が、知らないけどビッグベンとか、テムズ川とか、意外と美味しいレストランとか、スウィンドンの丘なんかを照らし出して、なんだよ結構良い所じゃん、イギリス。なんてわけのわからない感慨を僕に抱かせた。

「ほ、ほうか。お、俺も、なんも出来てへんからな!新しく来たALTの先生もキンパツやったげ、ほやけど、何にも想ってないからな!」

 僕の声はもう推測するまでもなく明らかに震えていた。その震えは心配や不安からでなく、とにかく美怜に教えなきゃいけない、今すぐに僕の五年間を、美怜のいなかった僕の五年間を解ってもらわなきゃいけないという焦りから来ていた。要するに僕は美怜が父親の海外転勤のせいで小学六年の始めにイギリスに旅立った時から変わらず、美怜の事が好きで、それは五年の間も変わらなくて、五年ぶりに逢った今もその気持ちは全く変わっていないという事だった。

 僕の情けない絶叫を聴いた美怜は急に立ち止まって、腰を屈めた。あっもしかしてマズい事言ったかな、僕はいつまでも昔の関係にしがみついて重くてキモくて鬱陶しい奴だと思われたかもしれないな、きっとこの後顔をあげた美怜は僕を泣きながら軽蔑の眼で見るだろうな、と僕は自分でも驚く程のスピードで頭の中で不安を炸裂させたが、気付くと美怜は全身を小刻みに震わせていて、その震えの波がしだいにゆっくりとしかし大きくなっていた。どうやら滅茶苦茶笑っているらしい。そして美怜が顔を上げる。

「もー、変わってないね、ケンちゃん」

 浮かんだ涙を目尻の方に拭いながら美怜が僕を見て言った。

 それを見て、僕は早合点かもしれないけれど、転勤ってなんだよ、イギリスってなんだよ、五年ってなんだよ。と思った。そんなの、別に何の意味もないじゃないか。どれだけ離れたって、どれだけ時間が経ったって、僕達は、僕と美怜の二人は、何にも変わらないじゃないか。いつだって、これまでだって、そしてきっとこれからだって、ずっと何にも変わらずにこうなんじゃないか。シンプルにそう思ってしまった。僕達は別に恋人同士じゃないし、お互いに「好き」なんて言葉は交わした事は無いし、こうしてる今だって、割りとドラマチックなこの空港の状況でだって、自分の気持ちを言葉にして伝える勇気は僕には無い。でもいつかきっと、「好きだ」と言うべき時が来る。改まって、気恥ずかしさや、お互い解り切ってる事なんて全て忘れて、ちゃんと伝えなきゃいけない時が来る。

 だけれど今僕は、今が未だその時じゃない事が嬉しい。要するに、今改めて想いを伝えて、お互いの関係を修復させたり再確認したりアップデートさせたり、そうしなくちゃいけない機会じゃないのが、僕は本当に嬉しい。僕と美怜は変わってない。五年経っても、その間の使う言語が違っても、僕達を見下ろす天気が違っても、美怜がムートンコートやピアスを身につけても、僕が変わらずラングラーのジーンズを履いて実は最近生まれて初めて買った香水(アルマーニだぜ、アルマーニ!)を首筋に付けていても、僕達の間でそれらは何の障害にもならない。

 大丈夫だ。僕達は、大丈夫だ。僕は思わず涙が出そうになって、しかしなんだかそれが情けないようにも思えた。

 美怜に「か、変わったわ!五年も経ったんやで?」と僕はあまのじゃくに言ってみる。そうすると再びキャリーを引きながら歩き始めた美怜が笑いながら言う。

「ぜーんぜん、変わってないよ。気合い入れようとすると、似合わない事する所とかね」

「な、なにがや」

「香水、それ、付けすぎだよ」

 美怜はそう言ってまたウフフフと笑い、スキップしながら空港のロビーを歩いた。

 ・・・やっぱり五年は長いな、と僕は笑いながら、いやちゃんと言うと苦笑しながら思った。香水をどれくらい付けたらいいか、美怜はイギリスでちゃんと覚えたんだ。ムートンコートの着こなしやピアスの選び方も。それでモっコモコになったんだ。僕はそんなこと全然解らない、とにかく動脈なんでしょ?と思ってやたらめったらに噴霧して擦り付けたんだ。やっぱりこの五年間は埋めなきゃいけないけど、でもきっとその作業は楽しいんだろうなと思った。多分少しは嫉妬したりする事もあるかもしれないけれど。

 「もう、カバンくらい、持ってくれもいいんじゃない?」

 と振り返ったモっコモコの美怜がちょっとイジワルそうな顔で言う。

「ほ、ほやな」

 と僕が焦って返す。美怜がキャリーの持ち手を僕に渡しながらウフフと笑った。