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【短編】孤独のグルメ『栃木県さくら市喜連川の温泉パンからの宇都宮のかかしそば』

 

 

 

 

   孤独のグルメ『栃木県さくら市喜連川温泉パンからの宇都宮のかかしそば』

 

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1.

 温かい。身体がじんわりとほぐされていく。首筋から肩にかけては心地良い冷たく硬い感触。ゆっくりとその人工大理石のような縁に凭れ体重を預けてみると、腰の辺りがふわりと浮き上がり、まるで眼の前に広がる青空の中に吸い込まれていくような気がして来る。確かあの時もこうやって空を仰いで水の音を聴いていた。そう、餃子包囲網を抜けた先にあった、大きな橋の上。あの日も大変に良い天気だったけど、今日の晴天もどうだ。白い雲が如何にも雄大に視界の中を泳いで行く。

 微かな初冬の風が頬に当たる。熱い湯が淡い湯気をくゆらせながら俺の身体を隈無く暖める。

「あぁ…」

 冷えた顔を湯にまみれた手のひらで拭うと、もう最高の気分だ。

 まさか、こんな所で露天風呂付きの温泉にありつけるなんて、全然予想してなかった。

 綺麗な石造りの湯船とそれを囲むゆったりとした敷地。休憩用の椅子とテーブルまである。しかしここは温泉宿なんかじゃない、気軽に立ち寄れる道の駅だ。

 今日は午前中に宇都宮まで車で来て納品を済ませた後、そこから西北に進んださくら市喜連川で商談があったのだが、そこでこの道の駅きつれがわを偶然見つけた。円筒型の大きな建物があり、資料館でも併設されているのかと思ったのだが、まさかそれが温泉だったとは。しかも入浴料は大人500円ときてる。都内の銭湯とほとんど変わらないじゃないか。久しぶりの長距離ドライブに少し疲れていた俺にはまさに天の恵みだった。

「ああ、このまま一泊しちゃいたいなあ」

 思わず吐息混じりに呟く。なんだか優雅で自由な一人旅でもしてる気分になってきたぞ。

「お兄さん、どっから来たのお」

 同じ湯につかっていた老齢の男性が俺に話しかけた。

「ああ、東京から来ました」

 はにかんで俺は答える。しまった、独り言が聴こえてしまったみたいだ。

「東京かぁ。仕事で来たんかい」

 ゆっくりと尻上がりになっていくイントネーションでその男性が地元の人だと解る。

「ええ、丁度その帰り道でして。まさかこんな所に温泉があるなんて、知りませんでした」

「栃木の温泉つったら鬼怒川とか那須がそりゃ有名だけど、川治とか中禅寺とか色々あるのよ。そんでここ、喜連川もね」

「たくさんあるんですね、勉強不足でした。とても良い湯です」

 苦笑しながら答える。しかしこれは決してお世辞なんかじゃない、本当に良い温泉だ。身体の芯からとろけてしまいそうだ。

「ああ、そうだろう」と呟いた男性は畳んだ手ぬぐいを頭に乗せたまま、首もとまで湯につかり、目をつむって押し黙った。まるで温泉の成分をじっくりと全身に染み込ませようとしているようだ。俺も真似してみる。水面の音が耳元で静かに弾け、湯の熱が身体に優しく滲んで行くのが解る。気持ち良い。大昔、まだ社会も、文化すらも無かった頃の人々も、不意に見つけた熱い湯にその身体を浸してこんな心地になったのだろうか。それはきっと今俺が感じている心地良さと、数千年の時を隔てても全く同じものに違いない。なんだか日々の全てを忘れて、俺はまるでこの地球に生きる素朴な生き物の一つに戻ったようだ。

「お兄さん、昼飯はもう食べたの」

 老人の声に俺はハッとして目を開け、いえ、これからですと答える。

「この辺はねえ、鮎なんかも美味しいし、結構良いラーメン屋なんかもあるんだよ」

 鮎かあ、いいなあ。海に接してない県はやはり川魚に期待が持てる。栃木のラーメンと言うと、すぐに思い付くのは佐野のラーメンだ。と言ってもこれはつい最近学んだものだ。佐野は確か埼玉に近い所謂県南の方だったと思うけど、この辺りは県央だ。

「ちょっと下って行くと竹末っていう店があるんだけどね、あそこは美味いよ。スープがまっ黄っ黄でなあ、麺も細くて食べやすいんだ」

 まっ黄っ黄のラーメン。豚骨だろうか。少し気になる。

「タケスエですね、覚えておきます」

 なんだかぶっきらぼうな返事をしてしまったが、仕方がない。実はそろそろ、のぼせそうだ。

「ありがとうございました、お先、失礼します」

 俺は老人に声をかけて、湯船から上がり室内に戻った。火照った身体を冷たい風が撫でる。

 

 

 

2.

 もしかしたら仕事が長引くのではと思い、替えの下着を用意しておいて良かった。暖まった身体と乾いたシャツのゆるやかな擦れが、ああ湯上がりだなあと思わせる。こういう感じも久しぶりだ。

 道の駅といえば名産品や土産物。入って来た時はちゃんと見なかったが、建物のホールには所狭しと色々な食べ物や民芸品の類いが並んでいた。鮎の甘露煮、かんぴょうの漬け物、そしてとちおとめのジャム。どれもこれも栃木土産にはもってこいの代物だ。

 ふと見ると、茶色くまるっこい物がビニール袋に入れられて幾つも並んでいた。近付いて手に取って見る。半円球のものが四つずつ入った円筒形の袋。どうやらパンらしい。

温泉パン…?」

 袋にはそう書いてある。なんだろう、聴いた事が無い。温泉パンと言うからには、きっとタネに温泉を使っているんだろう。なんだか身体に良さそうだ。温泉で身体を外から暖めて、温泉を使ったパンで身体の内から滋養を得るだなんて、なんというか完璧じゃないか。喜連川で温泉三昧。

 見てみると色々な味がある。くるみ、オレンジ、黒豆ココア、ベーコンチーズ。生地に練り込まれているのだろうか?外から見る限りはよく解らない。でもチーズはまだしもベーコンは練り込めないよなあ。

「ふむ。いちごは無いのか…」

 ベーコンチーズも気になるが、風呂上がりだし爽やかに、ここはオレンジを買ってみよう。

 

 

 

3.

 外のベンチに座ると、太陽の光がとても眩しい。俺は今買った温泉パンの袋を開け、その半球型の一つを手に取ってみる。

 ずっしりしている。大きさはいよかんを丁度半分に切ったような、いやそれよりも一周りか二周り程は大きい。とは言えこのサイズのパンにしては重いし、指で押してみると密度を感じる。これは食いでがありそうだ。

 口元に寄せるとほのかにオレンジの香りがする。手で千切らず、そのまま豪快にかぶりつく。

「んっ」

 これは凄い、ぎゅうぎゅうに握ったおにぎりみたいだ。ふわふわしてなくて、だけどフランスパンみたいに堅くは無くて、あくまで柔らかいパンがみっちりと詰まっている感じだ。クロワッサンのような鼻から抜けてしまうような食感とはベクトルが全く逆。噛む度にパンの生地が柔らかく裂けながらもしっかりと歯を押し返し、「物を食べているぞ」という感じがする。

 肝心のオレンジはと言えば、かぶりついた断面を見てみると刻まれたオレンジピールのようなものがちらほらと見える。たっぷり入っているわけではないが、醸し出す風味は申し分無いくらいだ。口に入れる度に、ちゃんとオレンジのパン。ずっしりみっちりだけど、とても爽やかだ。

 自販機で買った缶コーヒーを開け、一口含み、また温泉パンに齧り付く。胃にしっかりと入っていく食べ応えと同時に、温泉の成分が身体の内から沁み入って行くような心地になる。美味しい。

 

 温泉に入って、温泉パンも食べて、俺は今とても満たされている。いや、満たされている筈なのだが。どうしてだろう。心のもやもやが消えない。先ほどティーカップの納品を終えて宇都宮を離れた辺りから、漠然とした不安というか、ずっと何かを忘れているような、そんな気がする。落ち着かない。ううん。

 俺は「原因の無い不安」というものは存在しないと思っている。不安には絶対に原因があり、正体がある。だから俺は心にもやもやを感じた時、徹底的に考えるようにしている。仕事の事だろうか、生活の事だろうか、はたまた人間関係、もしくは単に寝不足だとか風邪の引きかけのような体調の問題だろうか。そうやって思い付く限りを一つ一つ手に取って観察するようにして考えてみる。すると必ずどこかで引っ掛かるのだ。意識していない、もしくは忘れてしまっていた所で不安の種になってしまっているものがある。それが解れば不安は消える。消えなかったとしてもその不安は曖昧なものではなく具体的なものに変わる。そうなれば対処も出来る。

 しかし今回はその原因が解らない。どれだけ頭の中を探っても引っ掛からない。一体どうしたものだろうか…。

 不安を感じている事に不安を感じても仕方が無い。一先ず事務所に戻って次の仕事に取りかかろう。まっ黄っ黄のラーメンはまた今度だ。

 

 

 

4.

 県道を車で走り、近場のインターチェンジから高速に入ろうと進路を変えかけた時、携帯が鳴った。運転しながら通話するわけにもいかないので、俺は車を路肩に停めた。鞄から携帯を取り出し、応答する。

「はい、井之頭です。…なんだ滝山か」

 携帯のスピーカーから聞き慣れた浮ついた口調が聴こえる。

『おう、五郎。今大丈夫かあ?』

 大丈夫だから電話に出てるんじゃないか。

「大丈夫だよ。どうした、また何か仕事でも振ってくれるのか」

『まあそんな所。お前今日、栃木だろ?』

 なんで知ってるんだ。こいつ、相変わらずの地獄耳だ。

「そうだけど。今都内に戻ろうとしてる」

『待った、戻るな。俺、明日の昼に宇都宮に行くんだ。そうだな、十一時くらいまでには着くと思うから、駅の傍で待ち合わせしよう。餃子屋とかでどうだ。あるだろ』

「お前さあ、仕事を振ってくれるのは有り難いんだが、その勝手ぶり、どうにかしてくれないか。泊まる予定なんか立ててないんだぞこっちは」

 このまま一泊しちゃいたいなあ、と湯につかりながら呟いた事を思い出す。滝山の、良い言い方をすれば豪放磊落な笑い声がスピーカーから躍り出る。

『まあいいじゃないか。明日は商談の予定も無いんだろ?』

「おいおい、お前、俺のスケジュールどこまで知ってんだよ」

『スケジュール?知ってるわけ無いだろお、そんなの。当てずっぽ』

 滝山がまた大きく笑う。一体どこまで本当なんだか。俺が明日宇都宮に行けなくても、きっとたいして気にせずに話を進めるんだろう。

「ああ、解ったよ。十一時な」

『それでこそ五郎だ!いやな、実は宇都宮でお前を紹介したい人がいてな。大口の注文になるかもしれないから、期待しとけよ』

「解った解った。で、餃子屋だっけ?お前さあ、むちゃくちゃあるんだぞ、餃子屋って」

 餃子包囲網。

『えっ、そうなの?やっぱすげえんだな宇都宮って!』

 俺はもう呆れ果てて笑ってしまう。

「知らないで言ったのかよ。まあいいや、俺が昼までに指定するから」

『おう、頼んだぞ。どうせならすげえ美味い店な!じゃあ!』

 ブチッと一方的に通話が切れる。全く迷惑極まりないのだが、滝山が持って来てくれる仕事はいつも上物ばかりだし、これまでの恩もある。いつまで経っても食えない奴だが、ここはまた一つ信頼するとしよう。

 俺は携帯を鞄に戻し、エンジンキーを回す。まさかの、宇都宮での一泊。決定。

 

 宇都宮駅周辺への進路を確認しながら、俺は溜め息をつく。嵐のような通話だった。

 俺は滝山のエネルギーに気圧されたのだろうか。なんだか、無性に腹が減って来た。

 

 

 

5.

 駅にほど近いホテルでチェックインを済ませ、俺は宇都宮の街に出た。陽は大分陰り、夕闇の中で看板のネオンや街灯が美しく際立ち始めている。橋の下を流れる川ものっぺりとした暗い色になり、微かに月の光をその水面に纏っている。吹き抜ける澄んだ風が冷たい。俺は駅前へ向かう。もやもやは、未だ消えない。

 またやって来てしまった。餃子包囲網。とりあえず今夜はこの辺りで夕食を摂ろう。滝山との約束通り、ここは良い餃子屋を見つけるべきだろうか。前回ここに来た時も結局餃子は食わなかったから、是非宇都宮餃子というものを堪能してみたい気持ちはある。

 しかしそう考えながら包囲網の中を歩いていると、一歩進む毎に次々と目に飛び込んで来る「餃子」の二文字に俺はだんだんとクラクラして来てしまう。迷うというより、目が回ってしまう。一体どこで食べればいいのか皆目見当がつかない。

 その内だんだん、「餃子」の二文字の大量摂取だけで、まるでもう腹いっぱい餃子を食ったような気になってきた。肉と野菜とニンニクの香り、香ばしい皮の焼き目と酢醤油とラー油の刺激で胃が満たされているような心地がしてくる。

 いかん、惑わされるな。俺は本当に腹が減ってるんだ。今すぐに何か食べたい。食べ物で腹を満たしたい。ここでしか食べられないもの、俺のもやもやを吹き飛ばしてくれるもの、そして出来れば、餃子以外のもの…。

「おっ」

 さんざん歩き回ってホテルの近くに戻って来てしまった時、俺は急に現れた「生そば」の三文字に思わず立ち止まった。店の外観は小さい製麺所のようにも見えるが、暖簾越しに店内を覗いてみるとカウンターとテーブルがあり、老齢の女性と男性が座って食事をしている。良かった、中で食べられるらしい。

 餃子のパワフルさとは全くベクトルが逆だが、良いかもしれない。宇都宮のそば。ここにしよう。滝山、すまん。餃子屋は俺が明日、当てずっぽで決めさせてもらうぞ。

 

 

 

6.

「いらっしゃいませえ」

 簡素な造りのカウンターの中には割烹着姿の白髪の女性。かなりの高齢のようだ。このおばあちゃんがそばを打っているんだろうか。店内を見渡してみると、老舗のそば屋というよりはやはり、小さい製麺所にイートイン用の座席が置かれたように見える。なんだか打ち立ての美味いそばを直に楽しめそうで、俺は少しわくわくする。

 カウンターに座り、鞄と脱いだコートを隣の座席に置く。パウチされた冊子型のメニュー表を手に取り、何を頼もうか考える。ざるそばあたりでこの店のそばをシンプルに楽しみたい所だが、今の俺の腹はもっと重量感を味わいたがっている。となると丼もののセットか、もしくは天麩羅そばのような大型の具が乗ったかけそばが良いだろうか。おっ、鶏そばというのも気になる。

 一体なにが正解なんだ、と悩みながらメニューを眺めていると、「かかしそば」なるものが目が留った。傍らに小さく写真が載っている。かけそばに、天麩羅らしきものがこんもりと盛られている。しかし天麩羅そばは別にある。なんだろう。

「すみません、このかかしそばって、何が乗ってるんですか」

 カウンター内の白髪の女性に訊いてみる。

「かかしそばはね、おそばの上に細切りの大根と、お野菜の天麩羅が乗ってるんですよ」

 へえ、初めて聴いた。なんだかここでしか食べられない匂いがぷんぷんする。よし、これにしよう。

「じゃあかかしそばを、ひとつ下さい」

 はあい、と答えながら女性が準備を始める。

「ちょっと待ってねえ、一人で切り盛りしてるもんだから」

「ええ、ゆっくり待ちます」

 メニュー表を戻し、ふと先客の方を見てみると、どうやらもう食事は済んでいるらしく、カウンターに置かれた雪平鍋から何かをおたまで掬い、それを湯飲み茶碗に入れて飲んでいる。注文したもののようには見えない。サービスで振る舞われたものだろうか。

「お兄さんも、甘酒、飲む?」

 俺の視線に気付いたのか、男性が俺に訊いた。甘酒だったんだ。

「あっ、すみません、ワタシ下戸なもので…」

 酒という言葉に反応して瞬間的にそう返してしまう。図体のせいかよく酒を勧められるから、すっかり癖になってしまっているんだ。

「ああそうなの?でも甘酒なんて子供でも飲むんだからさ」

 男性が新たな湯飲み茶碗に甘酒を入れ、はい、と俺の前に置いてくれる。確かに小さい頃に親戚の家で飲んだ記憶がある。少しくらいなら大丈夫だろう。まあもし駄目でも、今日はもう車に乗らないし宿も確保してあるから、大事には至らない筈だ。

「すみません、じゃあ少しだけ頂きます」

 湯飲みの中に溜まる、白く濁った甘酒。懐かしい香りだ、なんだか安心する。啜るようにして少し口に含んでみる。甘い。いや、しょっぱい。甘じょっぱいぞ、この甘酒。甘じょっぱ酒だ。

「塩を入れてあるからね、それ。ちょっとしょっぱいでしょ」

「ええ、美味しいです」

「塩が無いと甘いだけだからねえ」

 甘酒なんだし甘いだけでも良いとは思うが、これはこれで独特で良い。

 変に酔っぱらわないように慎重に口に運んでいると、暫くしてカウンターの一段上に大きな丼が置かれた。

「はい、かかしそば、お待たせね」

 来た来た。お盆に乗せられたそれをゆっくりと自分の前に降ろす。

 濃い色のつゆに浸かったそば、その上に刺身のツマのように細く切られた大根が盛られていて、そこに三方から寄りかかるようにして、茄子、春菊、玉葱の天麩羅が乗せられている。そして頂上には刻み海苔。かなりインパクトあるぞ、これ。

「あとこれもどうぞお」

 小鉢が一つ出された。見てみると人参と大根のなますだ。柚子の皮も入ってる。

「ありがとうございます」

 よし、まずはなますから食べてみよう。

「いただきます」

 箸でつまみ、口に放り込んで、噛む。シャキシャキと良い音がする。ああ、これは美味しい。酸味も丁度良いし、野菜の甘みもしっかりある。なにより柚子の美しい香りと適度な苦味が全てを引き立てている。食欲が沸いて来る。これは単なる箸休めじゃないぞ、しっかり嬉しい小鉢料理だ。やるなあ、おばあちゃん。益々期待が膨らむ。

 そして本丸、かかしそば。先ずは天麩羅と大根の隙間から箸を入れて、そばを味わってみる。箸でそばを持ち上げてみると、その手打ち感がよく解る。ツルツルして瑞々しくて、その太さにほんの少しバラつきがある。なんとも美味そうじゃないか。

 口元に持って来て、冷ますために息を吹き掛けようとして、あれ?と思う。全然湯気が立ってない。もしかしてこれって…。

 一思いにそばを啜り上げる。やっぱりだ。冷たい。かけそばだけど、つゆは冷たいんだ。そこに揚げたての天麩羅から移った温もりがある。へえ、これは面白いなあ。立て続けにそばを啜る。美味い。角が立っていて、コシがしっかりしていて香りも高い。これは良いそばだ。今度は大根と一緒に啜ってみる。うん、良い。大根の爽やかな食感とそばの深い味わいが上手くマッチしてる。ツマと冷たいそば、いいじゃないか。さあ、天麩羅はどうだろう。

 まずは春菊だ。熱々の天麩羅のサクサクとした歯触り、次いで春菊の香り。美味い。これ、エグみみたいなものが全然無いぞ。凄く奇麗な味だ。合間にそばを啜ると、つゆがそれこそ天つゆのように濃いめの味になっているのに気付いて、とても合うのが解る。

 次は茄子だ。噛むと、サクっときて、フワッとくる。おお、甘い。柔らかくなっているがトロットロというわけじゃない。身の繊維の食感が残っている。茄子の微かな青臭さが心地良い。次に箸をつけたかき揚げ状の玉葱も、これまた美味い。野菜が持つ旨味がしっかり出ている。玉葱の香りって、良いスパイスなんだなあ。

 かかしそば、正解。それも大正解だ。

 俺は夢中になって食べた。食べ進めていると、天麩羅の油がつゆに染み出して来て、丼の湖面がキラキラと輝き始める。冷たく爽やかなそばに油の旨味が加わり、新たな食欲が沸いて来る。美味い、美味いぞ、宇都宮のかかしそば。

 

 

 

7.

「ふう、ごちそうさまでした」

 美味しかった。餃子包囲網の中で食べるそば。なんだかひねくれ者みたいだ。それでも全然かまわないじゃないか。いつどこでどんな出逢いがあるかなんて、誰にも解らないんだ。

 仕度を整えながらカウンター越しに代金を支払い、「かかしそば、美味しかったです」と白髪の女性に伝える。

「美味しいでしょう、あんまり無いでしょうこういうの」

「ええ、初めて食べました」

「お兄さん、どこから来たの?お仕事?」

 今日は二度目だ、この質問。

「東京から仕事で来ました。昼間は喜連川の方におりまして、今夜は宇都宮で一泊します」

「あらお忙しいのねえ。喜連川は温泉があるの知ってる?」

「はい、道の駅を見つけまして、そこで入りました。大変良い湯でした」

 そう言うとおばあちゃんはとても嬉しそうな顔をする。

「あと、温泉パンというものを見つけまして、風呂上がりに買って食べたんですけど、美味しかったですねえ」

「あら私も好きよ、温泉パン。色々味があって美味しいのよねえ、温泉は全然関係ないんだけど」

 え?…え?

「あのー、あれって、タネに温泉の湯を使ってるとかじゃ、ないんですか?」

「そう思われる方も多いんですけどね、温泉は全然使ってないんですよお。温泉のそばで売ってるパンだから、温泉パン。それだけなのよお」

 えー…。そうなんだ。温泉、関係無いんだ。

「そうだったんですかあ、いやあ知りませんでした」

 身体の外も内も温泉だなんて嬉しがっちゃったのが、なんだか恥ずかしくなってくる。肩すかしだけど、でもそれも面白いかもしれない。温泉は入ってないけど、温泉パン。なんとも可愛らしいじゃないか。

「また、おそば食べに来ますね。ごちそうさまでした」

 出入り口に歩きながら、まだ甘酒を嗜んでいた男性にも一声かける。

「甘酒、ごちそうさまでした」

「いやとんでもない。おっ、お兄さん、ちょっと顔が赤いね」

「えっ、そうですか」

 まさか。湯飲み茶碗半分の甘酒で俺は酩酊してるんだろうか。そういえば冷たいかけそばを食べたのに、身体はぽかぽかと暖かい。

「まあ、気をつけてな。またいらっしゃい」

「はい、ありがとうございます」

 改めて礼を言い、俺は店の暖簾をくぐった。

 

 

 

8.

 宇都宮はすっかり夜だ。先ほどより星の光がくっきりしている。冬の夜なのにあまり寒くない。やはり俺は酔っているのだろうか。なんだかホテルの部屋にすぐ帰るのも寂しいし、また餃子包囲網を抜けて商店街の方まで散歩してみよう。

 俺は大通りをふらふらと歩きながら、まだあの心のもやもやはあるだろうかと確認してみる。美味いそばを食べて甘酒で酔っても、やはりまだもやもやはあるようだった。一体どうしちゃったんだろうか、俺は。

 ファッションビルのある交差点を曲がり、アーケード商店街に入る。さすがにこの時間だと閉まっている店も多く、人通りも少ない。たまに擦れ違う酔客だけが騒々しい。でも今の俺も彼らを揶揄する事は出来はしない。

 暫く歩いていると、不意に左側から強く風が吹き込んで来た。俺は思わずコートの襟を立てる。そうだ、この商店街には大きな広場があったんだ。

 イベントは行なわれていなかったが、広場の奥のステージにはきらびやかな電飾が施されていた。ステージの壁面を照らす白い光と、それを大きく覆うガラス張りの屋根の青い光、そして散りばめられた星のようなオーナメント。思わず、綺麗だ、と口に出してしまう。

 その瞬間、俺の心のもやもやが一気に霧散したような気がした。俺は何かを思い出した。そして同時に、奥底から何か焦りのような別の感情が沸き上がって来た。忘れていたものが、怒濤のように押し寄せるのが解る。

「えっ、嘘。俺、もしかして」

 まさか、そんな馬鹿な、と俺はそれを打ち消そうとする。しかし光り輝くステージから目を離せない。いや正確に言えば、あの時に見たステージの光景が重なって、その情景を見つめ続けてしまう。

「酔ってるんだ、俺は」

 苦笑いしながら呟く。それでも俺の心の動揺は収まらない。そんな、まさか。違う、違うよ。この俺が、アイドルにまた逢いたいだなんて、思うわけがないじゃないか。

 俺の記憶がまるで立体映像のようになって、誰もいない夜の宇都宮のステージに投射される。光り輝く笑顔、可憐に舞い踊り、栃木県の歌を一生懸命唄う少女達。まるで人間の生そのものを目の当たりにするような、深い感動。そして初めてアイドルと握手する俺に優しく接してくれた彼女達の言葉を、俺は忘れられないでいる。俺は静まり返った商店街に一人ぽつねんと立ち尽くす。

 

 ...そっか、今日は彼女達、ここにはいないんだ。

 

「いかん、いかんぞ!」

 俺は無理矢理自分を奮い立たせる。俺はアイドルの親衛隊にはならないし、なれない。そういう男なんだ。急に宇都宮に一泊する事になって、心がゆるんでるだけだ。疲れてるんだ。酔っぱらってるんだ。そうに違いない。あれ甘酒じゃなくて、ただの濁り酒だったんじゃないか?

 俺はステージから目を離し、踵を返してホテルへと足早に歩き始める。もやもやが消えた心地良さと、言い知れない焦りはまだついてくる。どうにかしたいがどうすればいいか解らない。

 そうだ、餃子を食おう。まだ腹に余裕はある。適当な店に入って、それなりに美味しければ滝山に薦めればいい。そうしよう。あいつは全く美食家なんかじゃないんだ。

「疲れに良いんだ、餃子は、疲れに」

 言い聞かせるように呟きながら、俺の足取りはいつの間にか楽し気に弾んでいた。